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三代舞踊団 主宰
みしろ まさし三代 真史 さん
「カリスマ」という言葉は、「彼」のためにある言葉であると私は思う。カリスマとは「人の心を惹きつける強い魅力」であり、「彼」とはダンサーの三代真史(1960年、福井県敦賀市生まれ)のことである。新聞記者だった私が初めて彼を取材したのは27年前の1996年。当時、すでに三代は名古屋市文化振興事業団の企画公演「天国と地獄」(1991年)に出演して脚光を浴び、翌92年には全国ジャズダンスコンクール(東京)グランプリと、名古屋市民芸術祭賞(舞踊部門)を獲得。名古屋の舞台芸術界の新星として注目の存在だった。口数は少なく、大声で自己主張することもない寡黙な人だが、ひとたび舞台に立てば唯一無二のダンススタイルで観客を魅了する。そんなカリスマ・ダンサーの生い立ちと人柄を紹介しよう(文中敬称略)。
(聞き手:上野 茂)
衝撃受けた「ジス・イズ・レノン」
私が初めて見た「三代真史ジャズ舞踊団」(現在は三代舞踊団)公演で上演されたのは「ジス・イズ・レノン~生と死の追憶~」(1996年・名古屋市芸術創造センター)だった。世界の音楽界に革命を巻き起こしたビートルズの結成からジョン・レノンの死までを描いた創作ダンス劇(脚本、演出・坂本久美子、振付・三代真史)。ビートルズを知る世代にはたまらない、愛しく切ない物語だった。数々のエピソードが、せりふのないダンスと音楽のみで表現できることに私は衝撃を受けた。三代舞踊団の代表作の中で、最も好きな作品になった。
同作は1980年に暗殺されたジョン・レノンへのオマージュを込め1994年に初演された作品。三代がビートルズの素晴らしい音楽に触発された作品でもあった。話題になったのは劇中の休憩時間。ビートルズを演じたメンバーが、舞台上で時間が止まったように不動の姿勢を15分間保ち続けたのである。彼らは脂汗を流して耐え切った。客席からは何度も拍手が沸き起こった。
人生の大転機そして舞踊団設立へ
舞踊団創立の経緯を聞いた。三代は中京大学卒業後、故郷の敦賀(福井県)に戻り、高校の保健体育教員になるはずだった。ところが、大学4年の時に出会った名古屋YMCAのジャズダンス講師の坂本久美子から「あなたの才能は世界に通用する」と熱心にダンスを勧められた。教員かダンサーか、大いに迷った末、三代はダンサーへの道を選んだ。中学の教員だった父親は激怒したが、「得意のアクロバットを取り入れた独自のダンス劇を創ってみたい。この機会を逃したくない」と、YMCA入りを決意した。
当時を振り返り、坂本は「体操で鍛えた身体能力、天性のセンスと表現力を目の当たりにして、世界中の観客を魅了することのできるダンサーに成長すると直感しました。もちろん、彼の人生を変えてしまうわけですから、重大な責任を感じました。ご両親にも申し訳ないと思いました。それでも、三代君に賭けてみたかった」と回想する。
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松陵中学器械体操部時代 -
中京高校時代1978年国体に出場 -
ドイツでの体操祭では旗手を務めた -
全日本学生選手権で優勝した大学時代
ダンスブームの追い風もあり、YMCAの〝三代教室〟は大盛況で、大きな収益を上げた。そして1990年、NHKのエグゼクティブ・プロデューサーだった伊豫田静弘の勧めで「三代真史ジャズ舞踊団」を発足させた。主宰は三代、芸術監督は坂本。創立メンバーには三代に心酔する徳武徹、種山雅之らが参加。同年12月には名古屋市民会館で舞踊団結成記念公演を開催した。
人気を博した「サムライ公演」
先に「ジス・イズ・レノン」を紹介したが、三代舞踊団には「羅生門」「蜘蛛の糸」「服部半蔵」「ジャパニーズ・ビジネスマン」ほか多くの代表作があり、繰り返し再演されている。それは豊かなドラマ性があるからに他ならない。ドラマ性とは、社会性であり人間性、さらに言えば「普遍の愛」なのである。観客は坂本が構想し、三代らダンサーが体現する愛のドラマに感動し幾度も公演に足を運ぶのである。
市井の舞踊団の圧倒的多数を占めるのは女性だが、三代舞踊団には男性ダンサーが多い。そこで坂本が提案したのが男性だけの「サムライ公演」だった。1997年に行われた第1回サムライ公演は男性7人、翌年の第2回公演には外部の人材を加え28人もの男性が出演した。ダンサーだけではなく、空手の練習生やミュージシャン、好奇心旺盛なジャーナリストも加わった。結局、同公演は2004年の第7回公演まで行われ、三代舞踊団の名物公演になった。参加した外部の男性たちは三代の人間性に触れ、舞台の面白さに魅了されたのである。
中でも第2回サムライ公演で上演された「弁慶~安宅の関」は傑作だった。歌舞伎「勧進帳」をダンス劇化した異色作だった。観客は弁慶に扮した三代の力強さに圧倒され、義経を演じた徳武の名演技に胸を熱くしたのである。見事な坂本演出だった。
身体能力培った敦賀の海水浴場
さて、ここで時間軸を戻し、三代の少年時代から大学卒業までの〝体操人生〟を振り返るとしよう。
両親は教育者で、父は中学、母は小学校の教師だった。小学校の6年間は母親と同じ敦賀市立松原小学校で過ごし、敦賀市立松陵中学では3年になった時、父親が同じ中学に赴任してきた。「おかげで修学旅行は父と一緒でした」と三代は苦笑する。
「僕は活発でやんちゃな少年でした。ある時、悪さをして廊下に立たされていた時、母が通りかかりました。あの時の気まずさは今も忘れられません」
敦賀市の地図を見ると、松原小は敦賀湾に面し、海水浴場のある松原公園の敷地内にあり、松陵中は松原公園の南側に隣接している。三代は少年時代「砂浜でバク転の練習をしたり、高い崖から海に飛び込んだりして遊びました」と回想する。彼の強靭な身体能力は、この海岸で培われたのである。
テレビ番組のヒーローに憧れるのも少年の常。「小1から『柔道一直線』に憧れて柔道を始めました。3年の時には千葉真一のアクションを真似、中1の時はブルース・リーの映画を見てカンフーに夢中になりました」
器械体操志望も新体操へ
器械体操を始めたのは中学時代。「入学と同時に器械体操経験のある先生が赴任されたので、体操部を作ってほしいとお願いしました。2年間は同好会、3年になって正式な部として活動を開始しました。当時の運動部を経験した男子なら分かると思いますが、厳しいスパルタ教育でした。活動中は水分補給も禁止。僕らは密かにタオルに水を含ませ、それでのどをうるおしました。今思えば笑い話ですね」
さて、高校進学である。「体操で身を立てたい」の思いはすでにあり、それにふさわしい名古屋の中京高校を選択した。「高校野球の有名校で、見学に行くと素晴らしいスポーツ施設がありました。器械体操部を志望したのですが、新体操部の人員が足りないからと、新体操部に移るよう指示されました。入部後、いきなりインターハイ(全国高等学校総合体育大会)に出場。個人の部で3年生の先輩が第2位になりました。僕はその先輩を超えることを目標にして頑張りました。3年の時、個人2位になりましたが、結局インターハイでの優勝は叶いませんでした」
「運動部は原則寮生活で、毎朝6時に起き、練習漬けの毎日でした。3度の食事も清掃も当番制で、おかげですっかり料理が上手くなりました(笑)。練習では先輩たちの厳しい洗礼を受けました。3年になった時、自分たちの代で古い慣習を終わらせようと、下級生に手を上げないことを決めました」
中京大学に進学した1年の時、ドイツのビュルシュタットで開催された体操祭(International Gymnastic Festival)に日本代表として出場し、最優秀賞を受賞した。三代は開会式で日本国旗を掲げて行進した。高校時代より一段と厳しい練習と向き合い、部長になった4年の時、オールジャパン(全日本新体操選手権)で優勝。インターハイでの無念を果たした。
2000年ヨーロッパツアー実現!
さて、話は三代舞踊団設立時の1990年に戻る。舞踊団は同年「ジャズダンス・ワールド・コングレス」に招待を受け、米国、ドイツ、メキシコなど世界各国で演技を披露した。そのステージで三代のダンスに興味を持ったドイツのプロモーターから声が掛かった。日本の舞踊団では初となる2000年ヨーロッパツアーの実現だった。海外でよくある「〇〇祭」「〇〇フェスティバル」への自費参加ではない。プロの舞踊団「Masashi Action Machine」として世界デビューしたのである。
芸術監督の坂本は「三代舞踊団がスカウトされたのは、日本人特有の武士道精神と、新体操で磨き上げたシャープでアクロバティックなダンスのマッチング。今まで、世界のどこにもなかった斬新なパフォーマンスだったからだと思います。特に好評だったのが『ジャパニーズ・ビジネスマン』でした。勤勉で礼儀正しい日本のビジネスマンの日常を、ユーモアを交え構成した作品。どの国の会場でも、熱烈なスタンディング・オベーションを受けました」と感動の日々を振り返る。その後ツアーは恒例化され、ヨーロッパからアメリカ、アジアへと広がり、米国を代表する新聞「The NewYork Times」に掲載され、CNNテレビで紹介され、ついには「Dance Magazine」の表紙を飾ったりもした。
長男・晃史ダンサーデビュー
ここで三代のプライベートな部分についても紹介しておきたい。高校、大学、社会人生活を通し、一貫してダンスと音楽に生活の大半を費やしてきた三代が伴侶を得たのは2009年のことである。相手は長年クラシックバレエを学んできた乗倉奈津美。父親の仕事の関係で、少女期はシンガポール、中学・高校時代は米国で暮らしてきた国際感覚あふれる女性である。たまたま目にした三代舞踊団のホームページに惹かれ、2006年にオーディションを受け入団した。以来、周囲に気づかれることもなく二人は愛を育んだ(らしい)。
2016年には長男・晃史、その3年後には長女・真子が誕生。「僕の少年時代以上に活発な子で、足も速く、運動神経も優れているようです」と親バカぶりを発揮する三代。晃史はすでにダンサーデビューしている。
三代の愛車「ポルシェ911 Carrera4S」についても触れておきたい。〝アスリート〟の代名詞が示すように、性能、スタイルは折り紙付き。スーパーダンサー三代に相応しい名車である。三代はこのクルマに20年間乗っている(23年4月現在の走行距離は約25万キロ)。贅沢や道楽ではない。良いものを大切に、末永く―。それが三代の選択なのである。
新たな〝三代舞踊団〟を確信
最後にダンスの変化、舞踊団の将来について聞いた。三代は現在、新栄にある名古屋文化短期大学の客員教授としてダンスの指導をしているが、「僕らの世代にとってダンスは特別なものでした。しかし現代の若者たちにとってダンスは日常の一部。難しい振りも訳なくこなします。難点はメンタルが弱いことでしょうか」。そういえば〝ハングリー精神〟という言葉も死語になってしまった。抗うことはできない。そういう時代になったのである。
実は私には、三代舞踊団の行く末について懸念があった。「主力ダンサーが優れているほど、後継者が育たない」。そんな実例を幾つも見てきたからだ。創立以来、舞踊団を支えてきた徳武徹、種山雅之も三代と同世代。男性にこだわるわけではないが、3人に匹敵するようなダンサーは、もう現れないのではないか、と思っていた。
ところが2021年7月の第25回選抜公演「DRUMS VS.DANCE」で懸念が吹き飛んだ。出演した楠崎陸人、種山敢太ら、少年たちのアグレッシブなダンスに、若き日の三代、徳武、種山がオーバーラップしたのである。それもそのはず。種山敢太の父は種山雅之、母は三代舞踊団歴代ナンバーワンの女性ダンサー塩谷友美というサラブレッド。2、3年のうちには、三代の息子・晃史が加わる。主力ダンサー川地暁子の息子・藤井創太もいる。数年後には新たな〝三代舞踊団〟が再び脚光を浴びるに違いない。私はそう確信している。
