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「七ツ寺共同スタジオ」元代表・演劇プロデューサー
ふたむら としゆき二村 利之 さん
名古屋小劇場演劇界における礎的存在
半世紀以上にわたり小劇場演劇のメッカとして全国的にもその名を轟かせてきた、名古屋・大須の小劇場「七ツ寺共同スタジオ」。その創設者として、あらゆる表現者に“開かれた場”を提供し、支え続けてきた二村利之さんは、その功績が認められて昨年、第28回 ニッセイ・バックステージ賞を受賞した。折々の事象や人を見つめて思いを綴り、数多の表現活動と伴走してきた長き道のりを、インタビューで振り返る。
(聞き手:望月 勝美)
第28回 ニッセイ・バックステージ賞授賞式の様子
“劇場主”として歩んだ、40年に及ぶ道のり
夕刊紙の名古屋タイムズ(以下、名タイ)の記者などを経て、二村さんが6人の有志と共に「七ツ寺共同スタジオ」(以下、七ツ寺)を立ち上げたのは1972年のこと。その歴史は今年、2023年で51年目を迎えた。「自由な、開かれた表現活動の場を」と掲げた目標通り、演劇や舞踏、パフォーマンス、音楽、映画、映像など多様な表現者たちに活動や交流の場を提供してきた。当初は政治・社会問題の集会や講演会も多く催されたが、同じ頃全盛期を迎えていたアングラ演劇(※1)や、80年代の小劇場演劇の台頭に従い、演劇公演が利用の大半を占めるように。
そんな中、貸し小屋の機能に留まらない地域演劇のセンター的役割を担うべく、周年事業やプロデュース公演など自主企画にも着手。有望な劇作家や演出家、俳優、スタッフを起用し、若き才能の発掘や育成にも力を注ぐなど、当地の演劇文化を支え続けてきた。
やがて二村さんは40周年を機に七ツ寺の代表の座を後進に託すが(現代表は照明家の吉戸俊祐さん)、勇退後も「あいちトリエンナーレ」(現・国際芸術祭「あいち」)との連携作品を手掛けるなどプロデュース活動は継続している。
一角に設けられた、受賞者紹介コーナー
こうした長年の芸術振興への尽力が評価され、2022年に第28回 ニッセイ・バックステージ賞を受賞。ニッセイ文化振興財団が主催するこの賞は、日の目をみる機会の少ない“裏方さん”の功績を称えるもので、舞台芸術を裏から支え、舞台づくりに貢献し、優れた業績を挙げた舞台技術者を表彰対象としているものだ。
本好きで内向的だった少年時代
さて、そんな二村さんは如何にして表現活動に興味を抱くようになり、劇場を運営するに至ったのか、その生い立ちからお話を伺った。ご実家は名古屋市中村区の西南端、庄内川の畔にあり、終戦間近の1945年5月、防空壕の中で生を受けたという。
「横井町という町で、空襲を受けた新三菱重工業の岩塚工場が近い地域です。父は建築業、母は農業をしていて、稲藁で筵を編む内職もしていました。筵を遠くまで売りに行く時、私はリヤカーの後ろを押す役割で、帰りに駄賃をもらえるのが楽しみでした。小さい頃から本が好きで、本屋の前では本を買ってくれるまで動かなかったようです。
父が建築業を始めたのは高度経済成長の頃で、仕事が増えて潤ってくるわけです。近所の神社で小中学生の相撲大会があると、勝った子に父がご祝儀を渡していて、普段全然かまってくれないのに他所の子にはいいところを見せていたので反感を抱いていました。父は呑兵衛でしたが町内で一等最初にオートバイを買って、それに乗って颯爽と仕事場に行っていました。かなり仕事も大きくしましたが若い衆の使い方が下手で、中途半端な形で終わりました。ですから、家庭でのある種の歪みのようなものを子ども心に感じていましたね。一度だけ、三重県四日市市の霞ヶ浦まで海水浴に連れて行ってくれて、帰りに名古屋駅前の洋食屋でご飯を食べさせてくれました。それが父との唯一の良い思い出です」
中高生時代から没頭しはじめた新聞制作
「中学生・高校生の頃は専ら新聞部の活動をしていました。ありていの学校新聞を作るのは嫌いで、自分の考えを取り入れたり、新聞というものを利用して自分の意見を書き述べる、ということをやっていました。東邦高校に進学した頃には社会的な問題も取り上げていましたね。ところが高校2年生の時に落第し留年してしまいました。部室に昼から出動して新聞作りに励んでいたからです(笑)。再2年生では新聞部での活動を禁止されたので、当時無かった文芸部を作りました。私が本を選んで、各先生の得意分野に合わせて『レクチャーしてください』と声を掛けると先生方は喜んで話しに来てくれました。自分で言うのもなんですが、そういう企画や編集の才はあって、それが今にも繋がっていると思います。
留年後の学生生活は非常に根暗でした。勉強は相変わらずの成績で、文芸部の活動を続け、あとはひたすらお小遣いを貯めて、主に奈良に行って仏像巡りをしていました。友人も出来ましたが、いまひとつ馴染めず、内向的になっていたのかもしれません」
大学進学から名古屋タイムズ入社へ
高校卒業後は、仏教美術への興味もあったことから和歌山の高野山大学へ進学。再び新聞部での活動に邁進する日々を送った。
「伝統的で保守的な仏教系大学にもかかわらず、新聞部には非常に革新的な考えの持ち主がいましたね。卒業するために必要な単位は頑張って取りましたが、卒業論文が間に合わなくて“卒論留年”しました。卒業するために半年間、週に1回、名古屋から車で通って、なんとか卒論も出しました。卒論審査で、ある先生から『君はハサミとノリの使い方が上手いねぇ』と言われました。本論よりも、ツギハギでそれらしく見せる編集能力を褒められたわけですね(笑)」
こうして無事に大学を卒業するも、就職するまでには1年半ほど空白期間があったという。
「半年から1年ほど、全国の祭を研究していて名古屋に本部のある『まつり同好会』という全国組織の会長の運転手兼書生みたいなことをしていました。この頃、劇作家・演出家の東由多加が結成した東京キッドブラザーズの作品を観て、『あぁ、芝居ってこんなに面白いんだ』と開眼しました。その後、名タイが社員を募集しているのを知って、先の会長が『地味な人だけど少しは間に合うと思うから』と、当時の社長に電話を掛けてくれました。会社からは『暇なら仕事があるから来い』と言われて、2月から会社に行き、改めて採用試験を受けて正式に入社しました」
「七ツ寺共同スタジオ」開設への序章
「名タイ時代に出会った一番の大物は、土方巽や大野一雄の舞台美術なども手掛け、唐十郎らとも交流の深かった現代美術家の水谷勇夫さんです。部長から、『水谷さんという面白い行動派の絵描きが何かやるというから行ってこい』と言われて取材に行ったのが最初です。水谷さんやいろいろな人と繋がりができて、後にスタジオを始めてから非常に役に立ちました。
入社2年目の頃、演劇センター 68 / 71黒色テント『嗚呼鼠小僧次郎吉』(作・演出:佐藤信)の名古屋公演受け入れを、私的に立ち上げた5人ほどの実行委員会でやりました。2ステージで1,000人ほど入って、『こういうことに関わるのは面白いなぁ』と思いましたね。そのうちに、『やっぱり場所を持たなきゃいかんな』と思い始めました。場所を作るからには大須がいいなと思っていたところへ、空き倉庫で借り主を募集している、という話を聞いて早速、下見に行きました」
スタジオ誕生~黎明期
演目により客席の移動も可能な、定員90名ほどのシンプルな空間
1971年2月に名タイを退職した二村さんは、工業ベルトの問屋だった物件をひと目見て気に入り、知人や兄の協力を得て賃貸借契約を交わすと、スタジオの開設準備にあたったという。
「7人の運営委員が集まって、侃侃諤諤の議論を経て準備を進めました。オープンすると、面白い空間が出来たと聞きつけていろいろなところが使ってくれたのですが、毎月家賃を払っていかなくてはならないにもかかわらず、利用料を安く設定しすぎてしまいました。当然経営が苦しくなって、運営委員にしわ寄せが行くわけです。それでほとんどのメンバーが抜けて、金銭的には私が責任を持って運営していくことになりました。最初の数年間は結構大変でしたね。
ある時、北村想さんから『何か手伝えることがあったらやるよ』と電話が掛かってきました。そこから2年ほど、想さんが当時率いていたT.P.O師★団が経営を肩代わりしてくれたわけです。この間に想さんはスタジオを拠点に才能を発揮して、ロングラン公演や新作公演を次々に打って、面白い芝居をやってくれました。劇団員の陸逸馬さんが劇場管理を務めてくれたり、いろいろ手伝ってくれて非常に助かりました」
一時スタジオを離れていた二村さんは1977年に結婚。妻むつ子さんと共に、当時、千種区古井ノ坂にあったバー「エリアン」の雇われマスター&ママをしていた。ところが… 「想さんから『ここでやるべきことはやったから外へ出たい』と連絡があったんです。それで1979年末にスタジオへ舞い戻りました」
出典:ミニコミ大須第4号(発行/大須商店街連盟、1977年3月)
スタジオが最も活気づいた、’80~’90年代
「1970年代の看板劇団はT.P.O師★団、1980年代に入ると天野天街の時代ですね。ある時、スタジオの前で天野さんが舞台の面白い絵を描いていました。『君が天野君か』と声を掛けると『はい、僕です』って。当時はまだ純情可憐な少年でしたね。出会ってすぐに才能のある人だと直感しました。
1980年代には、つかこうへいさんや野田秀樹さんが市民権を得ると同時に演劇の裾野が広がってきて、“アングラ演劇”と言われたものが“小劇場運動”に変わっていきました。同時に、『七ツ寺を使って演劇をやろう』という人が学生劇団だけに留まらず、OBだったり、学生の有志が学校を超えて横断的に集まったグループが続々と出てきました。それで80年代から90年代にかけてものすごく上演件数が増えていって、運営もほぼ安定してきました」
節目の周年企画とプロデュース公演
「そうなると考えるのは、やはり節目の周年には何かやらなきゃいけない、ということです。もう一つは、劇作家、演出家、俳優、スタッフの後進育成で、その機会を作るにはプロデュース公演をやらなきゃいかんだろう、と思いました。
七ツ寺では10周年以降、15周年、20周年、以降もほぼ5年ごとに周年記念事業を行っていますが、一番代表的なのはやはり、20周年の1992年に白川公園で上演した野外劇『高丘親王航海記』(脚色・演出:天野天街)ですね。澁澤龍彦さんの原作を読んで、最初の2、3章目でこれは芝居に出来る、野外劇だ、と閃きました。それも演出は天野天街しかいない、と。親王役の松本雄吉さんや維新派、てんぷくプロの参加も良かったですし、火田詮子さんも存在感がありましたね。
プロデュース公演を始めたのは、もう少し後の1996年からです。その頃スタッフになった寂光根隅的父さんの存在が大きくて、後進の育成や教育的なことも始めました。彼は横の繫がりを作るのが大変得意な人で、主宰している劇団(双身機関)の公演も含めてあちこち繋がっていきました」七ツ寺プロデュース第2弾及び25周年記念事業として、1997年には『大須の杜のマンカイの下』(作・演出:進藤則夫)を上演。夢だったという大須観音境内での上演も実現した。以降も二村さんは、地元を中心にこれは! と思う才能ある演出家や劇作家らを起用していったが、プロデュースを行う際の指針を尋ねると以下の回答が。 「何か新しい分野を開拓する、というようなことは私はやっていないんです。テーマを決めるのではなく、まずはこの演出家や劇作家に機会を与えて新しい境地を開いてほしい、というところから出発します。私が思うひと通りの才能を起用して以降は、寂光さんが継続していった形ですね」
開館以降のスタジオの上演記録、周年企画、プロデュース公演については、1998年に発行された25周年記念誌「空間の祝杯」及び、2014年発行の40周年記念誌「空間の祝杯Ⅱ」に詳しい(現在も入手可)
ライフワークともいうべき2つの取り組み
また、七ツ寺は「あいちトリエンナーレ2010」以降、3年ごとの開催時に、共催事業や特別連携事業などで参加。演劇作品の上演と共に美術展やインスタレーション展示も行うなど、「七ツ寺をアートセンターにしたい」という構想も実現してきた。さらにこの関連企画から派生し、現在まで続く二村さんのプロデュース活動として、沖縄の作家の作品を題材にした朗読劇の上演がある。
始まりは、2016年の特別連携事業「七ツ寺共同スタジオプロジェクト 往還Ⅱ ~原初の岬から~」で上演した朗読劇『ホタラ綺譚余滴』だ。シマコトバ(琉球方言)と日本語による創作に取り組み続けている崎山多美さんの小説を朗読劇化したこの作品は、2017年に沖縄でも上演。2022年9月には同じく崎山作品の『ガジマル樹の下に』を朗読劇化して七ツ寺で上演。過日、2023年11月末にはこちらも沖縄公演を敢行している。
「これも崎山さんとの出会いから始まった企画で、舞台に上げることができる良い作品だと思いました。ただし、ドラマではなく朗読劇のスタイルで音楽やダンスも入れて作品を深掘りし、立体化しようと。またプロデュースできるなら、次も崎山さんの作品を名古屋で上演して、沖縄へも持っていきたいですね」
さらに二村さんにはもうひとつ、スタジオ近くで営む古本屋店主の顔も。1996年に開店した「猫飛横丁」は、若い演劇人に本を読んでもらうために始めたという。齢78を迎えた現在も意欲を持って物事に向かう姿勢は、演劇や表現活動に携わる者にとって心強く、学ぶことも多い。「店に来る人と会話するよう努めています」とのことなので、「猫飛横丁」へもぜひ足を運んでみてほしい。
- ※1アンダーグラウンド(地下)演劇の略。
