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劇作家・演出家・劇団ジャブジャブサーキット代表
はせ ひろいち さん
40年の節目を迎え、自由で豊かな作品創りへシフト
観客の想像力を喚起するミステリー仕立ての作品で人気を博す〈劇団ジャブジャブサーキット〉。その劇作と演出を手掛ける代表のはせひろいちさんは、現代社会を照射した巧みな会話劇のスタイルによって、大人の知的好奇心をくすぐる作品を創り続けている稀有な存在だ。本拠地は岐阜だが、1990年代以降は名古屋を軸に全国各地でも公演を行い、いつしか当地を代表する劇団のひとつに。そして昨年、劇団創立40周年を迎えたのを機に、昨年末から今年初めにかけて三重・東京・大阪を巡った第64回公演《夜の横顔》をもって、30年に及んだツアー公演に終止符を打った。ひとつの節目を迎え、新たな航路へと舵を切ったはせさんと劇団の軌跡、そしてこれからについて伺った。
(聞き手:望月 勝美)
〈邪楽〉〈NO SIDE〉を経て、〈劇団ジャブジャブサーキット〉誕生
「演劇がとにかく嫌いだった」というはせさんが、なぜか小劇場の世界へ足を踏み入れ、自ら劇団まで立ち上げることになったのは1985年のこと。岐阜大学OBを中心に結成した当初の劇団名は〈NO SIDE〉だったが、旗揚げから4年後の’89年、一定の成果を上げた岐阜での活動から、腕試しの決意で名古屋の劇場「七ツ寺共同スタジオ」へ進出するのを機に、〈劇団ジャブジャブサーキット〉(以下ジャブジャブ)へと改名した。
演劇とは無縁だったはずの人生が大きく転換したのは、大学入学前に遡る。浪人時代、予備校の授業をエスケープし、たむろしていた喫茶店で男女混合の気の合う仲間ができ、ミニコミ誌作りなどをしていたという。
「詩や論評を書いたりいろいろしながら、それが結構楽しくて。つまり、10人ぐらいのユニットが出来ちゃってたんですね。それで大学はみんな地方に散らばるわけだけど、せっかく出来た仲間だし、幸い大学生は夏休みなんかも長いし、『このメンバーで何かやろう』ってことになったんですよ。それで、その中に高校時代から演劇をやってるヤツがいて、『バンドでもいいし映画撮るのもいいし、俺は何でもいいと思うんだ。でもさ、演劇ってわりと低予算で始められるんだよ、どうだ?』って唆されて。今から思うと完全にヤツの術中にハマった(笑)」と、はせさん。
こうして、大学の枠を超えた集団〈邪楽〉を結成。「演劇が始まってしまった(笑)」。さらに、「お前、ミニコミ誌とかでいっぱい書いてたし、文章上手いから戯曲書け」と先の友人に後押しされ、当初から役者と劇作も担当することに。上演場所を提供してくださる方との幸運な出会いなどもあり、地元で5回ほど公演を重ねたが、〈邪楽〉は大学4年の夏で解散。卒業後は岐阜日日新聞社(現・岐阜新聞社)に就職し、演劇も卒業、のつもりだったが…。
「後を引くことはわかってたから、中型の免許を取って400ccのバイクを買ったり、当時流行りそうだったウインドサーフィンも始めて、演劇から全速力で逃げ切ろうと、いろいろな趣味を始めたんです」。
しかし、演劇の魔力には抗えなかった。
「既に〈邪楽〉を始めてたから、大学では演劇研究会に入るのはシャクだな、と思って映画研究会に入ったんですよ。でも、当時の岐阜大の演劇研究会はわりと中心メンバーがしっかりしてたり、いい芝居をいっぱいやってたので観に行ったりして交流はあって、お互いの芝居を観合いながら、牽制し合いながら、という関係でした。そういう演劇研究会のOBOGたちと’84年の年の瀬に一緒に麻雀をやってて、疲れて終わって飲んでるうちに、『劇団でもやりますか』っていうことに(笑)」。
この団結から〈NO SIDE〉が生まれた。やがてジャブジャブに改名し、名古屋進出を果たした頃、芝居と仕事の両立が難しくなったはせさんは、新聞社を円満退社。「芝居だけで生きていこう」と決意する。
“ミステリー好き”の原点
さて、そんなはせさんが描く作品といえば、冒頭でも触れたとおり「ミステリー」の要素が大きな特色のひとつになっているが、そうした志向性は幼少期に既に確立されていたようだ。
大正2年生まれの父と昭和2年生まれの母の一粒種として、昭和35(1960)年に岐阜市で生を受けたはせさんは、いわゆる堅い家庭環境で育ったという。テレビ鑑賞が許されたのは主にNHKの番組。当時放映されていた《タイムトラベラー》(原作は筒井康隆の《時をかける少女》)や、《刑事コロンボ》などの、SFや犯罪ミステリーシリーズに夢中になった。そして、一人っ子ゆえの自分だけの時間を、専ら本を読んで過ごすことで埋めていた。
「ほとんど活字とNHKの番組で人格形成されてるんじゃないかな。小学6年生の時には少年少女向けの《シャーロック・ホームズ》シリーズや江戸川乱歩作品なんかも全部読んだ。中学になって横溝正史を読んだら、こっちの方が面白い!ってなったり、そういう積み重ねでミステリー作品は常に読んだり観たりしてましたね」。
はせさんが創る舞台にはそうした下地の蓄積が色濃く反映されつつも、単なる謎解きに終始するわけでもなければ、これ見よがしの派手な展開や演出があるわけでもない。日常と非日常の間 で浮かび上がる不思議な現象や謎を絡めながら、あくまでも重点を置くのは人と人との関わりとそこから生まれる会話で、終幕までそれが淡々と描かれていくことが多い。全ては明確には明かされず、よく注意していないとつい聞き流してしまいそうな何気ないセリフの中に、数々の伏線やヒントが緻密に組み込まれているのだ。
そこには、自らの頭で推理し、登場人物たちの心を読み、事の顛末を想像することを享受してきたはせさん自身の“物語の楽しみ方”が集約されている。それを観客に提示し、リアルタイムで共有する面白さを見出してしまったことが、嫌いだったはずの演劇を今なお続けている原動力となっているのかもしれない。
幼稚園のお遊戯会で《こぶとり爺さん》の主役に
初期作から一変した作風の変遷
こうした「はせ作品」の特色は、長年の試行錯誤によって構築されてきたものに他ならないが、戯曲を書き始めた当初の作風は、今からは想像できない歌やダンスも取り入れたポップなテイストのものだったようだ。
はせさんが演劇に関わり始めた’80年代は、空前の“小劇場演劇ブーム”が巻き起こった時代。’60年代の“アングラ演劇”を牽引した唐十郎や寺山修司、鈴木忠志、別役実ら第一世代に続き、つかこうへいら第二世代、そして野田秀樹や鴻上尚史、如月小春ら第三世代が活躍し、エンターテインメント性の高い作品が多く生み出されていた頃だ。アルバイトで費用を貯めては足繁く東京の劇場へと通っていたはせさんも、それらの作品から少なからず影響を受けていた。
「仲間内でも好みはいろいろ分かれて、僕は〈劇団青い鳥〉派でした。『俺は第三舞台』、『私はエロチカ』とか言い合って、なぜ好きかを語らいながら各々の演劇感が育っていく。当時はまだ戯曲塾や演劇のワークショップも無かったから、とにかく生の芝居を観るしかない、って感じですね。それで、いろんな方法論に触れながら、いよいよジャブジャブになってからは、基本的に僕が全部書くようになった。でもいろいろ観過ぎたせいか、逆に『やっぱり演劇だから時々ダンスしなきゃな』とか『最後はバックサス(客席に向かって照明を当て逆光状態にする)入れなきゃ終われないのかな』なんてね(笑)。自分なりに『オリジナルを書こう』と思いつつ、つい当時の演劇の既成概念に囚われていたのかもしれないですね」。
やがて、必要に迫られ演出も手掛けるようになったはせさんは、演劇嫌いだった原点に立ち返る。
「なんで役者が急に客席に向かって喋りだすのかとか、なんでもっと舞台上に立ってる人を大事にしないんだろうとか、いろんな疑問を抱くようになって、演出もやるようになったらやっぱり嫌なことは出来ないな、と。今東京で流行ってる芝居のスタイルと自分が思う感覚との齟齬だったり、いろいろな葛藤があった時代だと思うんですね。そこからだんだん、“静かな演劇”みたいなことになっていった感じです」。
“静かな演劇”と括られることへの想い
’90年代小劇場演劇の潮流として、当時の演劇評論家らによってカテゴライズされた“静かな演劇”とは、平田オリザの舞台に代表される、日常の話し言葉を用いた抑制した演技による演劇のこと。この頃、はせさんの作品もよくそう評されていたが、ひと括りで語られることには戸惑いを感じていたという。
「“静かな演劇”みたいなことって、僕は全国で同時多発的に生まれたものだと思ってるんですね。例えば、青森の〈弘前劇場〉や北九州の〈飛ぶ劇場〉とか。そういうことが言われ出す2~3年前くらいから僕も、『必然のない前掛け台詞はやめよう』とか、『都合のいい一人ゼリフはやめよう』と思って書いていたし、『関係性をもっと大事に描こう』とか、『なるべくワンシチュエーションでいこう』とか考える劇作家が同時多発で出てきた、ということなんだと思う。とはいえ平田さんがやってる演劇、僕がやってる演劇、〈弘前劇場〉の長谷川孝治さんがやってた演劇は、似たように見えても全然違う。本人同士にはよくわかるんだけど、みたいな。でも平田さんの芝居を観て、『あぁ、これでいいんだよな』とGOサインをもらったような気がして、大きな励みにはなりました。だって、日常では誰かと誰かが同時に喋ることもありますよね。それまでの演劇の常識自体を笑いながら遊ぶというか、そういうことがほんとにいろいろ楽しくて。とにかくシチュエーションを一つに絞ること、登場人物を一番大事にすること、お客さんへのサービスというのは決して客席に向かって役者が何かを喋ることじゃない、みたいな大きなルール。そういうことに気づけたことは、これまで演劇を続けてこられた大きな出会いだったと思いますね」。
自身が納得する芝居の創り方、自分たちならではの演劇との向き合い方を掴んでいったはせさんとジャブジャブは、それ以前から取り組んでいた繊細な会話研究も武器に、次々と秀作を生み出していく。力量を認められ東京の劇場へも進出するようになると、’93年に《永遠の源さん》で池袋演劇祭優秀賞を受賞、翌’94年には《図書館奇譚》名古屋公演で集客1,000人を突破。さらに’95年の《まんどらごら異聞》東京公演でシアターグリーン賞を受賞し、’97年にも《非常怪談》で同賞を受賞。この年には大阪進出も。そして翌’98年から、名古屋・東京・大阪の3都市公演をスタートさせたのだ。
こうした’90年代以降の大躍進によって演劇界での評価や注目度が高まる中、はせさんは’99年に《ダブルフェイク》、2004年に《サイコの晩餐》、’06年に《歪みたがる隊列》と、3度にわたる岸田國士戯曲賞最終候補ノミネートも果たしている。
岐阜の劇団であり続けるということ
話は少し前後するが、劇団が名古屋へ進出してある程度集客できるようになると、はせさんは東京進出を目論んだ。
「名古屋に出てきた時と同じで、僕らがやってる演劇が東京ではなんぼのもんなのかを知りたい。ひょっとしたらもっと良いことがあるんじゃないかとか、劇団ごと買い取ってくれるような凄い人がいるんじゃないか、とか思って(笑)」。
そんな夢を抱きながら東京公演を実現すべく、2泊3日で上京して劇場を巡った結果、ちゃんと話を聞いてくれた「こまばアゴラ劇場」(’24年閉館)と、旧「シアターグリーン」(’05年に建て替えリニューアル)で翌’91年から上演が決まる。
「夏はシアターグリーン、冬はアゴラ劇場に年2回、必ず新作で行くっていうハードなことをしばらくやってましたね。最初の頃は劇団員も『売れるといいな』とか言ってたんですけど、みんなだんだん疲れてきちゃって。公演することに疲れるんじゃなくて、『移動の時に、あんな満員電車には乗るべきじゃない』とか(笑)。終演後にお客さんを招いて飲んでても、メディアが近すぎることで芝居の話より情報交換がメインになっているな、と感じたり。地方で活動するメリットっていろいろありますけど、劇団やアーティストにとって一番のメリットは、メディアから距離があることじゃないかな、と思うようになりました。ゆっくり作品創りができる環境で贅沢に時間を使って、自信のあるものを創って東京に持っていって観せてやる、って(笑)。そういう想いは東京公演を始めて5~6年で固まっていきました。自分たちはこういうスタイルでいこう、と」。
約30年に及んだツアー公演がもたらしたもの
これまで長年にわたって続けてきたツアー公演は、自分たちの創作環境のありがたみを再認識する気づきを与えてくれたことなど、その経験から得られたものは非常に大きかったという。
「ツアー先では劇場で宿泊させてもらっていたので、合宿なんですよね。芝居が終わって『お疲れ様でしたー』と言っても、『さて、今日はゴミ当番だれ?』みたいな生活を一緒にしてると、個人の癖とか考え方とか、生活の価値判断が全然違ってて面白いんですよ。『お前、そこに歯ブラシ置く?』みたいなことで時々揉めるんだけど、明日も同じ舞台に立たなくちゃいけないじゃないですか。もうだんだんね、『アイツはああいうヤツだからな』って、みんなの心が寛容になっていく(笑)。ツアー公演をしたことで、集団として強くなったと思うんですよね。あと、ウチは会社員とか準社員がいるので平日に休める日なんてあまりないんです。公演日は土日が中心だけど、仕込みは平日からだから何日か会社を休みますよね。そうするとその月はもう休めない。この前の公演でいうと、12月が三重公演で、1月に東京公演、2月に大阪公演、というのがウチのスタイル。そうすると次の公演までの間はそれぞれ家庭や仕事に戻って全然違う意識で生活して、それで次の稽古が始まると、役者がものすごく良くなってるんですよ(笑)。肩の力が抜けてて、連続して芝居してきた相手の記憶じゃなくて、今言われたことに『あ、それはね』って喋り出す、その感覚が無茶苦茶いい感じなんですね。今回の2月の大阪公演は本当にいい会話をしてました。ウチのような方法論だからこそ生まれるものがある、というのは2000年代以降、毎回実感していましたね」。
これからのはせひろいちとジャブジャブ
「《夜の横顔》でツアー公演はひと区切りしたわけですが、やっぱり劇団解散にした方がいいんじゃない? とか、ひょっとしたら途中で心が変わるかなと思ってたんだけど、なんだかんだ言ってとても楽しかったんですね。創ってる時にも「楽しさ」と「自由さ」、身近でこの両方があるのは芝居の他に無いな、とも思いました。この作品はある意味集大成として創ったこともあって、いろいろ詰め込んだりもしたんですけど、『あれって、あの芝居のあのセリフですよね?』とか気づいてくれるお客さんがいっぱいいて。それはちょっと嬉しかったですね。今回の出来は僕も満足してるし、最新作が一番楽しく思えるというのは良い環境で、良いひと区切りのつけ方が出来たな、と思ってます。とにかく次のステージがあることは間違いないし、放っておいても書きたいことや、やりたいことはまた生まれてくるという確信もあるので、しばらくは自分をほったらかしておこうと思ってます」。
そしてはせさんには言うまでもなく、長年にわたり苦楽を共にしてきた古参メンバーから、瑞々しい感性を持った若手まで、確かな力量と豊かな個性で作品世界を体現する頼もしい同志たちがいる。しばしの充電の後、彼らとの協働によって次はどのような作品を生み出し、私たち観客を堪能させてくれるのか、その時を楽しみに待ちたい。



