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岡田純奈バレエ団代表
おかだ すみな岡田 純奈 さん
舞台を通して、人を育てる
舞台への情熱と教育への揺るぎない信念を持つ岡田純奈さん。友人について行った舞踊教室をきっかけに踊りの世界へ入り、創作活動や海外公演など数々の経験を重ねながら、長きにわたり名古屋のバレエ界を支えてこられました。「心が動かなければ、お客様には伝わらない」。その言葉どおり、技術だけでなく豊かな感性や礼儀など、人としての成長を大切にする姿勢が、多くの教え子たちへ受け継がれています。舞台にかける想いを歩みとともにお伺いしました。
(聞き手:大寺 資二)
名古屋育ちと伊勢湾台風
1945年、終戦のおよそ1か月前、疎開していた母の故郷・山梨県で生まれ、戦後は名古屋市中川区で育った。実家はお菓子やパンを製造する店で、多くの職人が働き、活気があったという。
14歳の時に伊勢湾台風を経験した。中川区は市内でも土地が低く、家は床上まで浸水した。水が完全に引くまでには、およそ2週間かかったという。「海に近い地域の人たちは、本当に怖かったと思います。私の家には、水がいくつかの川を越えて、じわじわと入ってきました」。
水が引いた後には、流されてきたさまざまな物が残された。そうした遺品を集めて供養したものが、現在も名古屋市南区や弥富市に残るいくつかの「くつ塚」だという。写真のアルバムも水に浸かり、幼少期の写真はほとんど残っていない。職人たちが作ってくれた筏に乗っている写真がわずかに残っており、それを見ながら「やんちゃだった」と笑う。
バレエは友達について行ったことが始まり
バレエとの出会いは10歳の時だった。学校の友人が「バレエを習いに行く」と話しているのを聞き、そのまま一緒について行った。母には、「バレエに行くから月謝をちょうだい」と、すでに習うことを決めたうえで伝えたという。後年、母からその時のことを聞かされ、岡田さん自身も行動力があることに驚いたそうだ。ところが、その教室はクラシックバレエではなく、沖縄にルーツを持つ南條流の舞踊教室だった。琉球舞踊やさまざまな舞踊も学び、衣裳は家庭で手作りした。レオタードも現在のようなものはなく、身近な布を使い、スリップのような衣裳を作った。タイツは綿製で、破れるたびに繕って履いた。トウシューズも、今のように足幅や形に合わせて選べず、細く硬い靴に、足の指を押し込むしかなかった。冬にはしもやけになり、痛みをこらえて履いた。
レッスン着は母の手作り
「痛いから、レッスンが始まる随分前に履いて、どんどん立って歩くんです。そうすると、始まる頃には足が麻痺して痛みがわからなくなる。今では考えられないですね」。
それでも、バレエをやめようとは思わなかった。厳しい指導を受け、痛い思いをしても、踊ることから離れたいとは一度も考えなかったという。
『シンデレラ』が変えたバレエ観
1972年に名古屋市民会館が開館し、翌年に特別誘致公演として実施された、チャイコフスキー記念東京バレエ団の『シンデレラ』を鑑賞したことが、岡田さんにとって大きな転機となった。それ以前にもクラシックバレエの舞台を観る機会はあった。しかし、当時の舞台には現在のようなリノリウムマットがなく、トウシューズの音が床に大きく響いた。
「ガタガタと音がして、音楽が聞こえないくらいでした。こんなにやかましいものがバレエなら、自分はやらなくてもいい、と思ったこともありました」。
ところが、『シンデレラ』の舞台を観た時、その印象は一変した。
「自分がそれまでバレエだと思ってやってきたものとは、全然違うと感じました。踊りだけではなく、物語があり、表現があり、バレエはこんなにも人の心を動かすものなのかと思ったんです」。
特定のダンサーに憧れたというよりも、作品全体に魅了された。登場人物のユーモアや豊かな表現、舞台全体から伝わる物語の力。それが岡田さんを、本格的なクラシックバレエへと向かわせた。その後、名古屋駅に大阪の西野バレエ団から講師が来ている教室があることを知り、そこでも本格的なクラシックバレエの指導を受けた。さらに東京へも通い、チェケッティ・メソッドの教師講座や余バレエアカデミー教師クラスなどで研鑽を積んだ。仲間と活動を続けながらも、自身は各地の先生を訪ね、クラシックバレエの基礎と指導法を学び続けた。
南條みのり会と創作の原点
創作バレエ発表会にて
(1976年8月 愛知文化講堂)
1962年に南條流の先生が結婚を機に引退すると、残った10人ほどの仲間で「南條みのり会」を結成した。発表会を15回開催し、1976年に解散したが、この活動が、岡田さんのその後の創作の基礎となった。みのり会を支えた故・松本吉正氏からは、多彩な作品づくりを学んだ。みのり会で物語作品、民族舞踊、キャラクターダンスなど、幅広い舞踊表現に触れた経験は大きかった。
「多くの発表会で、音楽や衣裳が変わっても踊りの振付は同じというのをよく見かけます。でも私は、みのり会でさまざまな作品を経験しましたので、物語を作ったり、子どもたちに表現を教えたりする時に工夫しています。当時の経験がとても役に立ちました」。
1964年、中川区に自身の教室を開いた。南條みのり会を解散後は「南條睦美創作バレエ研究所」として活動していた。その折に、父兄から「先生の名前は大凶だよ」と言われた。1980年に南條流を脱退したのを機に姓名判断を受け、「岡田純奈創作バレエ研究所」と改称。その当時バレエ界に力りきまる丸純じゅん奈なさんが活躍されていたため、自身は純すみ奈なと読むことにした。1983年に「岡田純奈バレエ学園」、2001年に現在の「岡田純奈バレエ団」となり、以来、岡田純奈の名で活動を続けている。
中国公演と創作作品
1983年には、日中友好祭に参加した。生徒を引率して中国に一週間滞在し、九州の団体と共に公演を行った。岡田さん自身が創作した作品も上演し、中には子どものために作った童謡作品もあった。中国の関係者が特に関心を示したのが、歌に合わせて子どもたちが踊る作品だった。「子どもの教育に良い」と評価され、現地の人々に振付を教えたという。
「『パンツのはきかた』という童謡を使った作品でした。自分の作品を現地の皆様に伝えることができ、とても嬉しかったです」。
岡田さんは、長年にわたり童話を題材とした作品を数多く手がけてきた。『マッチ売りの少女』『赤ずきんちゃん気をつけて』『白雪姫』など、子どもにも親しみやすい作品を舞台化した。中でも、最も思い入れが深いのが『白雪姫』である。初めて『白雪姫』を作った頃、岡田さんには一つの夢があった。それは、自分が作った童話作品で劇場を満席にすることだった。
巡回劇場(2017年8月)で、
創作バレエ『白雪姫』を上演し、満席に。
後に、なごや子どものための巡回劇場に参加する機会を得て、その夢は実現する。当初、巡回劇場には「グランドバレエ(全幕もののクラシック作品)であること」という条件があり、創作した童話作品を上演することはできなかった。『シンデレラ』や『眠れる森の美女』などを上演してきたが、やがて条件が緩和され、念願だった『白雪姫』を上演することができた。公演は各地で好評を博し、会場に観客が入りきれず、長い列ができたこともあった。繰り返し観に来る子どもたちもいた。
「本当に嬉しかったですね。巡回劇場の機会がなければ、あの夢は叶わなかったと思います」。
舞台の数が舞台人を育てる
岡田純奈バレエ団の大きな特色は、舞台経験の多さにある。岡田さんが教室を始めた時から大切にしてきたのは、「できるだけ安い費用で、子どもたちに多くの舞台を経験させること」だった。発表会や定期公演に加え、地域の催し、屋外のイベント、巡回劇場、合同公演など、生徒が出演できる機会があれば積極的に参加してきた。多い時には年間15回ほど舞台に立つこともあったという。
「舞台の大小は関係ありません。小さな舞台でも、お祭りの舞台でも、子どもにとっては出ることと出ないことには大きな違いがあります。舞台があると、みんな集中して必死に稽古をします。実践に勝る練習はありません」。
演出・振付を行う
エレーナ・A・レレンコワ氏と
2007年、岡田さんは日露文化交流の視察団としてロシアへ赴いた。それを機に現地の振付家を招くようになったのだが、ある時、振付家のエレーナ・A・レレンコワ氏から、「このバレエ団の生徒は振付を覚えるのが非常に早い」と評価された。日頃から短い時間で振付を覚え、人前で踊るという積み重ねが、舞台人としての成長につながっている。
自分の心が動かなければ、お客様には伝わらない
岡田さんが舞台で大切にしているのは、技術だけではない。作品の中で登場人物として生きるために心を動かし、それを観客へ伝えることが最も大切である。
「主役だけが表現すればいいのではありません。周りに立っている人も、その場で何が起きているのかを感じ、役として立たなければいけません」。
童話作品を上演する時には、群舞や脇役の生徒にも、細かく演技を指導した。舞台上でただ立つのではなく、相手の言葉を受け止め、心を動かし、反応することを求めた。
ある合同公演のオーディションでは、岡田純奈バレエ団の生徒数人がすぐに選ばれ、振付家から「この子たちは持っているものが違う」と言われた。岡田さんは、それが日頃から教えてきた「周囲にいる時の立ち方」の違いだったのではないかと考えている。
「あなたたちの心が動いていなければ、お客様には何も伝わりません。声を出さないバレエでも、心から発したものは必ず伝わります」。文化小劇場のような客席との距離が近い会場では、観客の反応が直接伝わる。「お客様を自分たちの方へ向かせたら、あなたたちの勝ち。眠らせたら負け。舞台はお客様との勝負だと、いつも言っています」。
岡田さんにとって、発表会と一般公演は明確に異なる。観客が入場料を支払って観に来られる一般公演では、出演者はその期待に応える責任を負う。「身内だけが喜べばいい舞台ではありません。お客様に何を届けるのかを一番に考えなければいけません」。
バレエを通して、社会で生きる力を
岡田さんが子どもたちにバレエを通して教えたいのは、挨拶をする、時間を守る、話を聞く、努力を続ける、注意された時に自分を振り返ること。そうした社会生活の基本を、稽古場で身につけてほしいと考えている。
「バレエのレッスンをきちんと受けることは当たり前です。でもそれ以前に、挨拶することや遅刻をしないこと、帰る時にきちんと声をかけることが大事です」。遅刻する生徒には、与えられた時間と月謝の意味を話す。「お父さんやお母さんが一生懸命働いて、あなたたちにバレエを習わせてくれている。その時間を無駄にすることは、お金を捨てることと同じです。与えられた時間を一生懸命に使うことが、あなたたちの役目でしょう、と話します」。
時代とともに、教育のあり方や家庭の考え方は変わった。厳しく注意することが難しい時代になり、岡田さん自身も戸惑うことがあるという。それでも、子どもは家庭だけで育つものではないという信念は変わらない。「子どもは親だけで育つものではありません。外へ出て、いろいろな大人に見てもらい、注意され、アドバイスを受け、みんなに守られて育っていくものだと思います」。過去には、注意を受けても謝ることのできない子どもを、自宅まで連れて帰ったこともあった。食事をさせ、自分の言葉で謝れるようになるまで向き合った。保護者も、「そこまでしてくださるならお願いします」と受け止めたという。厳しさは、突き放すことではない。その子どもの将来を考え、責任を持って関わることだと岡田さんは考えている。
次の世代へつなぐ
岡田純奈バレエ団からは多くのダンサーや指導者が生まれた。海外で活動する人、医師や建築家など別の道へ進んだ人、家庭を持ち、自分の子どもを再びバレエ団へ通わせる人もいる。岡田さんは、バレエを学ぶ子どもたちには集中力があり、勉強にも熱心な人が多かったと振り返る。試験期間中でもレッスンを休まず、「バレエをしないと勉強に集中できない」と話した生徒もいた。「バレエは、先生の動きを見て、音楽を聞いて、順番を覚え、体の隅々まで動かさなければいけません。集中していなければできない。脳も体もたくさん使うから、それが勉強にもつながるのかもしれません」。
海外で踊る生徒には、日本へ戻ることだけを勧めるのではなく、現地で給料を得て踊り続ける道も大切にしてほしいと考えている。日本では、男性ダンサーは若いうちから出演料を得られる一方、女性ダンサーは高い技術を持っていても、舞台に立つために費用を負担することが少なくない。そうした厳しい現実も見つめながら、一人ひとりにとって最も良い道を考えている。
「若い時にお金をもらえるからといって、それが10年後も続くとは限りません。今、商品として舞台に立つのなら、きちんとレッスンをし、自分を磨き続けなければいけない。経験は増えても、肉体は少しずつ変化します。その中でどう自分を保つかを考えなければなりません」。
お客様をこちらに向かせる舞台を
岡田さんは、自分を「ぼんやりした人間」と笑う。しかし、その歩みをたどると、好奇心と行動力にあふれていることが分かる。近年は再びピアノを始めた。いつか自身初となるピアノの発表会にも出たいと話す。80歳を迎えても、新しいことへの興味は尽きない。これからの目標を尋ねると、まず「次のプリマ(※)を育てたい」と答えた。その言葉には、舞台を続け、未来へつなぎたいという強い思いが込められている。岡田さんが長年伝え続けてきたのは、踊りの形だけではない。
「お客様をこちらに向かせたら勝ち。眠らせたら負け」。その言葉は、舞台人としての覚悟であると同時に、人を育てる教育者としての信念でもある。岡田純奈さんは今日も、舞台を通して人を育て、次の世代へバレエの心をつなぎ続けている。
(2024年11月24日 愛知県芸術劇場大ホール)
- ※バレエ団の顔となる主役級ダンサー。



