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特定非営利活動法人 日本室内楽アカデミー理事長・ピアニスト
ささき よりこ佐々木 伃利子 さん
人生は自然体で
1976年、栄えある第1回の名古屋市芸術奨励賞を受賞し、ピアニストとして世界中で活躍する傍ら、1985年に日本室内楽アカデミーを設立し、理事長として音楽活動を牽引し続ける佐々木伃利子さん。これまで NHK の中部地方放送番組審議委員を務め、さらに、名古屋国際音楽コンクール、名古屋演奏家育成塾を通じて後進の育成に尽力するなど、多岐に渡り精力的に活動する佐々木さんにお話を伺った。
(聞き手:濵津 清仁)
様々な習いごとを経験した幼少期〜転機と なった学生時代
「幼い頃、ピアニストになろうとは思っていませんでした。小学校に入学する前から、バレエを習っていて、ある時、父から『向いていない』と止められたことがありましたが、それ以外は習いごとに関しては自由にさせてもらいました。幼少期から母親の手ほどきを受けていたピアノをはじめ、油絵など様々な習いごとに取り組みました。油絵は、学生油絵コンクールに入選するほどの腕前でした(笑)」
転機は、後に愛知県立芸術大学のピアノ主任も務められたピアニストの故・小津恒子さんが、中学2年生の佐々木さんの演奏を偶然に聴き、東京藝術大学附属高等学校か桐朋女子高等学校音楽科に進学するよう勧められたこと。「それまで音楽の道へ進むことは考えていませんでしたが、東京に行ってピアノを専門的に学ぶことも運命かもと思い、桐朋女子高等学校音楽科へ進学することにしました。進学後は1日10時間くらい練習するのが当たり前の環境で、生活がガラッと変わり、練習に明け暮れる生活でした。同級生は、ピアノの練習漬けで、学校行事にも参加したことのない人ばかりでした。実技レベルは高くてもテストの時はカンニングしていて、しかも悪びれる様子もないといった雰囲気に馴染めなくて、高校2年生くらいの時には転校することも考えました。しかし、思いがけず実技試験の結果が良く、上位の成績だったので思いとどまり、そのまま桐朋学園大学に進学しました」
ピアニストの基礎をつくったエピソード
佐々木さんのピアニスト人生の基礎となったエピソードを伺ったので、お話を交え紹介したい。1つ目は、西洋音楽を日本人が演奏して、ヨーロッパでも通用する演奏解釈の理論についてである。「日本人が、ドイツ人と同じようにベートーヴェンやシューマンの音楽を表現することはやはり難しいものです。そこで日本人としてどのように音楽を解釈していけばよいのかという具体的な理論をまとめたのが、いわゆるサイトウメソードです。それを桐朋学園高校では、故・小澤征爾氏から演奏解釈の授業で、その後、同大学では齋藤秀雄先生から学びました。例えば、シューマンの作品はエスプレッシーボ(表情豊かに)と楽譜に書かれている箇所を叙情的、ロマンティックに演奏することが多いですが、日本人はともすると表現過多になり“演歌風”に演奏してしまいます。これを齋藤先生は『シューマン病』と呼んでいました。どのように音楽を表現したらよいか、理論的に学ばせていただきました」
2つ目に紹介するのは、高名なドイツ人ピアニスト ヴァルター・ギーゼキング氏(1895-1956)の日本人唯一の弟子、中山靖子氏に師事したことである。「中山先生のレッスンでは、もっと続けて弾きたいところを、4小節ぐらい弾くとすぐに止められてしまいます。フォルテ(強く)や速いパッセージなどの部分ではなく、特にラルゴ(ゆったり)、ピアノ(弱く)、ドルチェ(柔らかく)といった箇所で、和音の進み方、バスの響かせ方、どのようなタイミングで次の和音に進んだらよいか、フレーズの取り方、節回しなど、決して拍だけで音楽が進むことのない微妙な部分についてレッスンを受けたことが印象に残っています」
その後オーストリアのモーツァルテウム音楽院にて夏期講習を受講し、ザルツブルク音楽祭で演奏する機会に恵まれた。「当地で師事したピアニストで作曲家のヴィンフリート・ヴォルフ先生(1900-1982)からは『大指揮者のフルトヴェングラーは、シューマンはドイツ人にしか表現できない作曲家と言っているが、佐々木さんの演奏はドイツ人のようだ』と、特にシューマン作品の演奏を評価され、“ミス・シューマン”と呼んでもらいました。諸先生方の教えの賜物だと思います」と佐々木さんは振り返られた。
音楽院ホールで演奏
(東京イイノホール)
「来るものは拒まず」と精力的に活動
(サントリーホール)
1975年、佐々木さんは第1回名古屋市芸術奨励賞を受賞。その後、地元名古屋の名古屋フィルハーモニー交響楽団、セントラル愛知交響楽団との共演だけでなく、東京や大阪でもオーケストラと共演。演奏の機会は「来るものは拒まず」というモットーのもとで、さらに室内楽の活動も開始。NHK 交響楽団のメンバーとも1978年頃から演奏を重ねていく。こうした室内楽での演奏経験が、1985年の日本室内楽アカデミー設立へとつながっていく。日本室内楽アカデミーは、名古屋を中心に、東京や大阪でも演奏会を開催しており、朝日新聞では「新幹線アカデミー」と評されるなど話題になった。当時、日本では発展途上であった室内楽の分野で、ハイレベルな演奏を目指しつつ、「後進の育成」「国際交流」「地域文化への貢献」を3つの柱として活動をしていくことになった。
作曲家コリリアーノ氏と(カーネギーホール)
1990年、日本とアメリカの相互理解をあらゆる分野で促進するアメリカ政府国務省の招待プログラムに、佐々木さんは日本人音楽家として初めて招待され、作曲家との交流などをテーマにアメリカ各地を回った。そして著名な作曲家であるジョン・コリリアーノ氏、アメリカの代表的な“ミニマル・ミュージックの巨匠”といわれるテリー・ライリー氏、世界的な弦楽四重奏団「クロノス・クァルテット」のメンバーなどと交流することになった。知り合った作曲家の曲を演奏するなど、その後の交流につながる機会となった。
「招待プログラムから帰国後、アメリカツアーの計画が持ち上がりました。そのきっかけとなったのは、偶然の出来事からです。選曲の段階でボストンの作曲家の作品も演奏しようと連絡したことから、その作曲家の弟子の五木田岳彦さんから電話がかかってきました。偶然にも五木田さんがツアーのプロデュースを買って出てくれたことでアメリカツアーが実現しました。ロサンゼルスではトヨタ自動車がスポンサーになってレクサスホール、ニューヨークではカーネギーホール、ボストンではジョーダンホールで演奏する機会を得ました」
新たな可能性の模索
コンサートの会場前にて
日本室内楽アカデミーメンバー
松美健太氏、小川剛一郎氏と
現代音楽の分野は、戦後アメリカを中心に、リズム、メロディ、ハーモニーを否定するところから始まり、ミニマル・ミュージックが盛んになった。ところが、佐々木さんが渡米した時に会った作曲家たちは、すでに異なる方向性を模索していた。アジアの音楽から素材を取り入れる等、音楽の流行が移りつつあったという。
そのような中、佐々木さんも音楽の方向性を探るという意図から、アジアに焦点をあてた活動に注力する。2000年には日本室内楽アカデミー設立15周年記念コンサートを「音楽が語るアジアの今」というタイトルで、5夜連続で行った。「アジアをイメージした作曲を募集しました。中国の琵琶や笛子、インドネシアのガムランなどを取り入れたものなど多彩な楽曲が披露されました。この時イギリス在住の作曲家ユミ・ハラ・コークウェルさんの楽曲も選び、ご本人に演奏していただきました。この出会いがご縁になって、2001年に開催されたロンドンでの日英文化交流事業『JAPAN2001』に私が招聘され、演奏することにつながりました」
地域文化への貢献
コンサートホールこけら落し公演
NHK交響楽団とピアノコンチェルトで競演
一方で、名古屋を中心とした中部地方でも多岐にわたって活動している。電気文化会館ザ・コンサートホール、しらかわホール、愛知芸術文化センターのこけら落としコンサートでの演奏。NHK 中部地方放送番組審議委員、東海テレビ・ラジオ番組審議委員などを歴任。CBCテレビ「美音市場」、「名曲ピアノサロン」でのピアノ演奏をはじめ、東海テレビ「伃利子の一奏一会~素敵にTalk~環境立国への交響曲」では、各企業の環境対策、環境ビジネスなどをテーマに、300名余の企業のトップと対談し、9年にわたり番組が継続した。番組内容をまとめて、日本経済新聞社出版センターより「環境立国への前奏曲」と題した本も出版され、現在、国会図書館に所蔵されている。テレビ愛知「未来への序曲 金言の庭」ではキャスターも務めた。その後、東海ラジオ「伃利子サンデーカフェ」のメインを9年3ヶ月務めた。自身のピアノ演奏だけでなく、ファッション、時事問題、コロナの時期には「断捨離」など音楽にこだわらなかったため、リスナーがコンサートに来てくれるなど新しいつながりが生まれた。ほかにも「あいちトリエンナーレ」の企画公募に応募し、審査委員会の満票を得て当選した。日本室内楽アカデミー、世界劇場会議、アルパックの3団体から成る共同体が一年にわたってシンポジウム2回、ワークショップ、国内外の事例調査などを行った。佐々木さんの活躍は枚挙にいとまがない。列挙するだけでも誌面がいっぱいになってしまうだろう。
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テレビ収録打ち合わせの様子
左からジャズピアニストの故・前田憲男氏、佐々木さん、演出の生長康氏 -
「環境立国への前奏曲」での北京ロケ
北京電視台にて環境対策を取材 -
「伃利子サンデーカフェ」収録風景
後進の育成
佐々木さんのライフワークといえる日本室内楽アカデミーは、支援の輪も広がり、着実に活動を続けている。1993年からは、若手演奏家のためのコンペティションを行っており、海外からのエントリーもあったことなどから、2002年から2008年にかけては、名古屋国際音楽コンクールを計4回開催した。
2004年には日本室内楽アカデミーが特定非営利活動法人に認定されたことから、名古屋市の文化振興に携わる担当者たちと「何か地域の文化振興に関わる活動を一緒にできないか」と会議を重ねた結果、若手演奏家を育てるプロジェクトとして名古屋演奏家育成塾(以下「育成塾」)を発足させ、2024年に20年目を迎える。年に2回開催される育成塾は、年々レベルが上がってきていると佐々木さんは喜ぶ。
(名古屋市公館)
「大学卒業後、名古屋に戻りましたが、東京で音楽を学んだ中部地区の若手演奏家グループの会に参加しました。例会で演奏をすると『いびりの会』と思えてしまうほど厳しい批評を受けました。昨今の風潮である褒めて育てるというのとは真逆でしたが、具体的にアドバイスを受けたことは良い経験になりました。育成塾でも、大学でのレッスンでは得られないような、若い演奏家が批評される場を設けたいと考えました。育成塾コンサート本番の1か月前には、〈フィニッシング(仕上げ)レッスン〉というものがあり、演奏家としてどうあるべきか、上手下手ではない“感動”を与える演奏とは何か、といったことをアドバイザーの先生方が具体的にアドバイスしています。かなり厳しい指摘もあります。
先生方からアドバイスをいただく参加者
しかし、それを指摘されたエントリー者はコンサートまでの1か月間、必死に試行錯誤します。褒めてしまえばそこで満足して終わってしまいますが、厳しく批評された演奏家はその後、見違えるように成長し、本番では見事な演奏を披露してくれます」
佐々木さんは、「昨今、上手に演奏する演奏家は多いが“感動”を与えることができない」と危惧している。筆者が「どうしてでしょう」と問いかけると、「なぜだと思いますか」と逆に問い返されてしまった。筆者は「演奏の動画等が日常に氾濫しているため、それを聴いた演奏家が同じような演奏をしてしまうのではないか。著名な人が演奏したものを模倣して画一的になってしまっているように思う」と答えると、佐々木さんはうなずいた。
「育成塾には聴衆が選出する〈聴衆賞〉があります。賞を設けることで、聴き手がさらに積極的になり、演奏家のファンとなって、演奏を聴きに行くリピーターになってくれます。聴衆が増え、さらに互いに誘い合って演奏会に足を運ぶようになる波及効果が生まれているのが嬉しいですね」
また、佐々木さんは育成塾で副委員長を務める(株)メニコン代表執行役会長 CEO の田中英成氏とのご縁から、2018年に田中氏が発足させた若手演奏家の支援組織(公社)スター・クラシックス協会の理事も務めている。これまで200人を超える育成塾の参加者から、ピアノの古田友哉さん、伊藤香紀さん、井上莉那さん、ハープの天野世理さん、チェロの下島万乃さん、マリンバの前川礼奈さんたちが、さらにスター・クラシックス協会支援プログラムに参加するなど、佐々木さんが撒いた種が花開き、さらなる広がりを見せている。
「夜会コンサート〜魅惑のアンダンテ〜」
カーテンコール
「今後もチャンスを逃さず活動を続けていきたいと思っています。今なお、現役で演奏することができて幸せです。音楽の世界に引退はありません。指が動く限り演奏活動は続けたいですね。気候変動、地震、政治など、世の中は目まぐるしく変化しますが、翻弄されるような生き方ではなく、まさに“人生はアンダンテ”、自然体で生きていきたいと思っています」そう穏やかに語る佐々木さんの姿は、まだまだ情熱と好奇心に満ちていた。
参考文献
「人生はアンダンテで」中経マイウェイ新書、
「ショパン」(2020年 11月号)ハンナ、
「一奏一会–環境立国への前奏曲–」日経事業出版センター
