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この人と…

日本舞踊家 五條流理事

ごじょう そのみ

五條 園美 さん

古典と創作、どちらも大切に

 歌舞伎から生まれ、豪華な舞台装置、衣裳をまとい、三味線音楽に合わせて華やかに舞う日本舞踊。西洋で例えるならバレエだろうか。有名な演目も多く、「京鹿子娘道成寺」「鷺娘」「藤娘」などは、舞踊家ならばいつかは踊ってみたい名作である。そんな演目を幼少期から踊り、古典だけでなく創作舞踊も数多く手掛けてきた五條園美さん。平成3年度名古屋市文化振興事業団第7回芸術創造賞、平成5年度名古屋市民芸術祭賞、平成9年度名古屋市芸術奨励賞、平成18年度愛知県芸術文化選奨等を受賞。令和5年度には、代表を務める創の会が前年に上演した「創作舞踊劇『幻想 平家物語』」が評価され、名古屋演劇ペンクラブ賞も受賞している。
 若手舞踊家の育成にも力をそそぎ、今もなお舞踊家として第一線で活躍を続ける五條さんにお話を伺った。

(聞き手:杵屋 六春)

生い立ちと日本舞踊

「浦島」の衣裳(7歳)

 名古屋大学の教授だった父(佐藤一夫さん)と、日本舞踊家の母(五條流理事・五條珠園さん)の長女として生まれました。私の妹は幼くして亡くなり、寂しい気持ちが少しでも紛れたらと考えた父の勧めもあって、戦後、母は私に日本舞踊を教えるようになりました。五條流初代家元の五條珠實先生は、名古屋の西川鯉三郎先生が使用していた稽古場をお借りして東京から稽古にいらっしゃっていましたが、戦後は我が家でもお稽古してくださるようになり、3歳頃より珠實先生と母の両方から手ほどきを受け始めました。

 不思議な話がございまして、戦時中、鯉三郎先生が使用していた稽古場の所作台(日本舞踊で足のすべりをよくし、足拍子の響きをよくするために敷く檜板)は、稽古場の持ち主の方が疎開先に持って逃げたそうです。ところが、戦後めぐりめぐって、その所作台が父の同僚のお宅に保管されていたことがわかりました。そこで、我が家の稽古場に引き取らせていただくことになりました。珠實先生に引き寄せていただいたご縁だと思い、今も大切に使っています。

 初代五條珠實先生は、名優と謳われた歌舞伎俳優六代目尾上菊五郎丈の最初の女弟子でした。西川鯉三郎先生とは兄弟弟子、花柳流ともご縁が深く、独立して創作舞踊を作りたいとの思いから、五條流を創設しました。私は先生と母から稽古をつけてもらって幼い頃から舞台で踊り、小学5年生で「鷺娘」、中学2年生で五條流の名取になった翌年「京鹿子娘道成 寺」を踊りました。「鷺娘」を踊った時は、お客様から「ぜひ息子 のお嫁さんに」と声をかけられたこともありました(笑)。幼少期から学生時代にかけては、毎月のように日本舞踊の公演がある時代で、楽しいお稽古ごととして続けていました。

「鷺娘」の衣裳で
左から五條園美さん、二代目家元五條詠昇師
五條雅之助師(現家元 三代目五條珠實師)

創作の道へ、山路曜生(ようせい)先生との出会い

 子どもの頃は、プロの日本舞踊家になろうとは思ってもみませんでした。当時、女性は短期大学を卒業し、少しお勤めして結婚するか、4年制の大学を卒業してすぐ結婚するのが一般的でした。私も、南山大学文学部仏文科を卒業した後、学生時代からお付き合いをしていた方と結婚しました。一人娘だったため実家で両親と同居しながらの結婚生活で、当時はお手伝いさんがいる恵まれた環境でした。息子と娘、2人の子どもに恵まれましたが、その後お手伝いさんが退職。慣れない家事に奮闘しながら、舞踊を楽しんでいました。しかし、34歳の時に子どもの手が少し離れて、ふと、これからの人生何をしようと考えた際、自分に出来ることは日本舞踊しかないと思ったのです。当時は今のようにテレビが普及しておらず、娯楽として踊りが身近にあったため、大人になってからも舞台に立つことは何度もありましたが、本格的にこの世界に進むことを決意しました。以前、工藤流リサイタルに出演した際にお稽古を見せていただく機会があり、工藤扇寿さんと相手役の西川右近さんの熱のこもったお稽古に感銘を受け、私もリサイタルを開きたいとの思いを強くしました。

 そこで、幼少期より出演していた「金城おどり」のご縁で可愛がっていただいていた、日本舞踊家の山路曜生先生にご指導を仰ぎました。これまで色々な娘役を踊ってきましたが、第1回リサイタル(1981年6月21日)では、私が思い描く恋を等身大で演じたいと、小説家の宇野千代先生の作品をベースに「薄墨桜」を創作しました。私が桜の精、山路先生には皇子として相手役を務めていただきました。山路先生の舞台の演出や、お聞かせいただくお話の全てが素晴らしく、とにかく近くで学びたい!そんな思いでいっぱいでした。

山路先生と踊った「薄墨桜」

毎年開催、リサイタルはライフワーク

 第8回のリサイタルまでは、山路先生とご一緒させていただきましたが、些細な行き違いから、先生との距離ができてしまいました。山路先生から離れた不安で、涙がこぼれる毎日でしたが、第9回のリサイタルからは、自分ひとりで何から何までこなすようになり、文字通り“リサイタル”での開催となりました。
 私は娘役の舞踊家ですので、お相手は男性の舞踊家にお願いすることが多く、時には若手、時には先輩と、多くの舞踊家のみなさまとご一緒しました。第5回では現代舞踊家の方々とも共演させていただきました。日本舞踊だけではなく、様々なジャンルの舞踊家の方とご一緒させてい
ただいたことで、創作への益々の意欲や世界観、人脈も広がっていきました。

第5回リサイタル 創作「時の悪戯」(1986年6月14日)
古川隆一さんと共演
五條流許しもの「義太夫日高川」
(1997年、国立劇場 珠實会)

 私のリサイタルの柱は「創作」と「古典」の二本立て。古典では、ご縁が深い人間国宝・常磐津一巴太夫先生に何度もご出演いただき、舞台を支えていただきました。
 そんな折、第11回リサイタルで、創作舞踊「風神雷神の図」(1994年7月23日)にご出演いただいた西川菊次郎さんと山路先生が親しく、久しぶりに山路先生がリサイタルを観にいらしてくださいました。先生から「とっても良かったよ!」と声をかけていただいた時は、なんだかほっとしました。あの時先生と距離が生じたことは「私から離れて1人でやってみなさい」という先生からのエールだったのだと、今では思っています。

一巴太夫先生の思い出
我が家が人間国宝の稽古場に

 常磐津一巴太夫先生には、名古屋での活動拠点として、およそ30年にわたり我が家を宿舎にしていただきました。中部芸能タイムズの主幹だった西脇和義さんが一巴太夫先生の芸に惚れて「ぜひ名古屋でお稽古場を開きたいので、弟子になりたい人を探している」と、内田流宗家・内田るり子先生や私の母に声がかかり、弟子入りすることになりました。この時、名古屋での稽古のための稽古場代や宿泊代が大変だ、という話を聞いた母が「稽古場もお宿もうちではいかがでしょうか?」と提案したのがきっかけで、我が家が一巴太夫先生の稽古場兼宿舎になりました。

 離れの稽古場でお稽古が始まり、先生の素晴らしい浄瑠璃を聞くのがとても楽しみでした。でもそれ以上の楽しみがあったのです。お弟子さんが帰った後、先生はご自身の作曲のお稽古をされるのですが、漏れ聞こえてくる小さな声が本当に素敵で、お宿を提供している特権だと思い、廊下でひっそりと聴かせていただきました。その美しいお声は今でも忘れられません。

常磐津一巴太夫先生と

新たな挑戦!「カルメン」の演出・振付でプロ意識を培う

 セントラル愛知交響楽団創立20周年公演として企画された「文楽様式による『異説・カルメン情話』」(2003年11月20日初演)の演出・振付を担当する人を探しているとのお話があり、プロデュースと指揮を担当していた松尾葉子先生とお会いすることになりました。松尾先生は、オペラ「カルメン」の登場人物に日本の着物を着せて作品を創りたいとおっしゃるので「日本舞踊はそんなに簡単なものではないから難しいと思います」とお伝えしました。すると「人形浄瑠璃とオペラを組み合わせ、歌い手が文楽の人形のような動きで人形浄瑠璃のように演じる舞台にしたいと思っています。義太夫や三味線も依頼する予定です」とおっしゃいます。そこで「人形振りなら様になるかもしれませんね」と口にすると、松尾先生から「五條先生に決めました!お願いします」と演出と振付をオファーされました。松尾先生とは初対面でしたが、意気投合し、お引き受けすることになりました。

 そこから、時代設定を近松門左衛門が活躍した江戸時代中期としてカルメンの物語を置き換え、オーケストラとソリストたち、義太夫と人形遣いの役をどのような形でコラボレーションさせるのか、大変ながらもワクワクする毎日でした。人形遣いの役には気心の知れた舞踊家の方にご出演いただき、各ジャンルの皆様のご尽力もあって舞台は大成功。名古屋だけでなく、東京などで5公演を開催することができました。

 西洋音楽の方々が使う立派な劇場に、演出家として与えられた楽屋の広さ、指揮の松尾先生はじめ、ソリスト、楽団の方々の舞台に向き合う姿勢や、プロ意識に感心しきりでした。なにもかもが初めてのことで、日本舞踊や邦楽をはじめとする伝統芸能の公演と全く違うことに驚きと発見がたくさんありました。「カルメン」のおかげで、世界が広がる素晴らしい経験をさせていただきました。

文楽様式による「異説・カルメン情話」(演出・振付)
プロデュース・指揮の松尾葉子先生、
セントラル愛知交響楽団と

芸能集団「創の会」を発足

 新型コロナウイルスの感染が拡大する少し前から、リサイタルのようなプロの公演や、おさらい会の減少、お弟子さんの減少など、日本舞踊界が全体的に低迷していることを肌で感じていました。何か新しい発想で出来ることはないかと思っていた頃、元 NHK エグゼクティブプロデューサーの伊豫田静弘さんと出会いました。伊豫田先生が演出する舞台を観て、この方となら何かができると思い、お力を貸していただきたいとお願いし、芸能集団「創の会」を2019年に立ち上げました。

 創の会は、舞踊家だけでなく、同じ志のある演奏家や地元の演劇人にも参加してもらい、新しい伝統芸能公演を創ることを目指しています。今までとは違う客層のお客様に観てもらう公演を創り、観客の裾野を広げようと、大きな公演としては「創作舞踊劇『名古屋城天守物語』」(2020年12月12日、13日)、「創作舞踊劇『幻想 平家物語』―笛が鳴る 誰を偲びて笛が泣く―」(2023年6月3日、4日)の2公演を開催しました。

創作舞踊劇「名古屋城天守物語」
舞台あいさつの様子(写真左・伊豫田静弘さんと)
創作舞踊劇「名古屋城天守物語」芸能集団「創の会」

 もともと日本舞踊家は台詞を話したり、芝居をしたりという経験が豊富ではありません。一方で、演奏家は現代的な表現の歌詞に節や三味線の曲をつけるのに苦戦するなど、異なる分野の方との創作活動は思うように進まないこともあります。各ジャンルで色々な工夫や稽古を重ねて、舞台を創っています。また次世代を担う若い世代の方々にもスポットが当たるように、重要な役どころを経験してもらいたいと思っています。2023年度名古屋演劇ペンクラブ賞の受賞の際には「幻想 平家物語」で新しい舞踊劇の可能性を追求したことを評価していただきました。これからも様々なジャンルを織り交ぜながら、伝統芸能の世界を広げていきたいと思っています。

次世代へのバトン 若手舞踊家の育成

 毎年開催していたリサイタルで、少しずつ弟子たちに役を渡していったのがきっかけで、2008年より「桜美(おうみ)の会」がスタートしました。弟子たちは着実に力をつけ、次第に主要な役を踊りたい、主役を踊りたい、自分たちの創作作品を創りたい、という要望を感じるようになりました。そんな思いが形になって公演を行うようになり、第6回桜美の会「舞踊三態~日本の四季によせて~」(2019年11月23日)では、2019年名古屋市民芸術祭賞をいただきました。

第6回桜美の会
「舞踊三態~日本の四季によせて~」
市民芸術祭賞授賞式会場で

 「桜美の会」の活動以外にも、長女の麗をはじめ弟子たちの意欲的な活動が増えてきました。母校で日本舞踊部を発足させ、単独のリサイタルを開催する弟子、またお寺に嫁ぎ、本堂に子どもたちを集めて、日本舞踊のワークショップを開催する弟子など、日本舞踊の輪を広げてくれていることは嬉しい限りです。

 私は南山短期大学で20年、名古屋芸術大学で10余年、非常勤講師として日本舞踊を学生たちに教えてきました。若い世代の方々に日本舞踊を経験してもらい、日本に素晴らしい文化があることを誇りに思ってもらえるよう、様々な角度から日本舞踊を広げ、次世代の舞踊家たちにバトンタッチしていきたい。それが今の私のライフワークです。

 筆者が「家庭を守りながら日本舞踊家として一線で活躍することは、並大抵ではない努力が必要なのに、軽快なフットワークで軽々とこなしているようにお見受けします」と申し上げたところ、「出稽古から疲れた顔で帰ってくると、母から『家に不機嫌を持ち込まないで』と叱られるから『なるほど』と思い、喫茶店でクールダウンして笑顔で帰宅していたのよ」とのこと。精力的に活動しながら朗らかな笑顔を絶やさない五條さんですが、家庭や仕事など何かを両立させて取り組む人なら、だれもが共感できるこのエピソードがとても印象的でした。

 日本舞踊の魅力や可能性を発信し続ける五條さんの活動からは、今後も目が離せません。2024年12月14日、15日には名古屋能楽堂けい古室にて芸能集団「創の会」が主催する「日本舞踊と邦楽で楽しむ平家物語」(仮)が上演されます。ぜひ足を運んでご覧いただきたいと思います。