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画家・名古屋芸術大学教授
よしもと さくじ𠮷本 作次 さん
絵画の道行き、絵画論の本質
1980年代にニューペインティングの旗手として、現代美術のアートシーンで鮮烈なデビューを果たした画家の吉本作次さん。1990年代以降は、新たな表現を模索し中国絵画の筆法から「線」の要素を取り入れるなどの創作を続け、2005年から名古屋芸術大学教授として後進の指導にもあたっています。
2024年には名古屋市美術館で大規模な回顧展も開催した吉本さんにお話を伺いました。
(聞き手:鈴木 敏春)
各地を転々とした幼少期
幼少期は、親の転勤がすごく多くて、各地を転々としました。理由はよくわかりませんが、父は喧嘩早い人だったので、多分上司と揉めてすぐに辞めてしまったからかなと思っています(笑)。父は、三重大学医学部を卒業して医師として津市高茶屋というところで暮らしていましたが、その後、岐阜県の国立病院に転勤し、1959年に僕が生まれました。でも、1歳半で高知県へ移ったので、生まれ故郷のはっきりとした記憶はありません。その後、高知県の幼稚園に3歳半頃まで通い、次は滋賀県。この時父は大津市の和邇というところにある療養所に転勤しました。小学2年生が終わるまでいましたが、その療養所の周辺は、いわゆる国定公園になっているような自然が多い場所でした。大津市で育ったことはすごく記憶に残っています。雪が子どもの腰まで降る。夏場は琵琶湖で泳いで、ホタルが家の中に入ってきたり、療養所の渡り廊下を鹿が行き来したり、今から考えると幸せな時間だったなと思います。自分の原型はそこで出来たような気がします。高知県で過ごしたことも記憶が薄い割に、大人になって妻と一緒に訪れた際に、妻から「なんか、この木って吉本さんの絵そっくり」とか、高知城に登って見下ろした時に見える木の形が「吉本さんっぽい」と言われました。母に聞いたら「子どもの頃、お前、高知城に登ったよ」と言うので、うっすらどこかに記憶が残っているのかもしれません。その後、三重県の桑名市に引っ越しました。
父に肩車されて。
桑名市での生活が人生で一番長く、今も実家があります。父はもう他界していますが、90歳の母は今も健在です。子どもの頃は画家になるとは思っていませんでしたが、もしかしたら、ロマンチストな
父とセンスの良い母の気質を受け継いだのかもしれません。
高校生活と美術大学受験
高校は、当時男子校 (2021年から男女共学)だった四日市市の海星高校に進みました。良かったなと思うのが、美術部がちょっと梁山泊的だったことです。美術教室が職員室から少し離れていたので、少々悪さをしてもわからない(笑)。美術の先生は週に1回ふらっと来るような感じで、生徒の独立意識が強かったです。同級生は愛知県立芸術大学(以下、県芸大)とか多摩美術大学、武蔵野美術大学へ行くような優秀な連中ばかりでした。僕はというと、二浪しても全然受からない。美大受験というものが全くわかっていなかったんです。つまり、受かるためのデッサンというものがあることは薄々わかっていたのですが、自分が良いと思う絵を描いて入学できると、どこかで信じ込んでいました。県芸大を受験した時に、河合塾で習っていた講師が県芸大でも助手をされていたので、デッサンする僕の後ろに来て、「いい絵だね。絶対落ちるけど !」と言われたこともありました。入学試験中なのに不合格が確定していたんです(笑)。浪人をしているにも関わらず、ろくに石膏デッサンもやらず、自分の描きたい絵しか描いて来なかったので、今なら「それでは不合格でも当然」と納得できるけど、逆にそれが良かったのかな(笑)。大学受験は全部落ちたけど、名古屋芸術大学に補欠で拾ってもらいました。今でも職場としてお世話になっています(笑)。
1980年代、東京より活気があった 名古屋の美術業界
受験生の頃は1970年代の後半でしたが、アキライケダギャラリーができたり、桜画廊、ギャラリーたかぎなどが既にありました。続く80年代は現代美術が流行っていて、当時の名古屋がどんな状況だったかということを、もう少し記録に残しておきたいと思います。何故か80年代の美術業界は何事も無かったように思われているようです。90年代とは違って、批評家たちが80年代というものを全く評価していないということもあるからかもしれません。以前、ある高名な美術評論家の方が名古屋芸術大学で講演された時に、60年代、70年代の動向を説明して、80年代が来るかなと思ったら90年代に飛んだ。そういう講演があったくらい、80年代の美術は今、不遇な扱いです。サブカルチャー系の音楽とかファッションとかはブームが来ていると思うのですが、逆に美術はずっと来ない。なぜだろう、というのが最近の自分の研究課題にもなっています。
80年代の名古屋の美術というのは、全国的に注目されていました。辰野登恵子(1950~2014)さんが名古屋で作品を発表するなど、東京より活気があって「名古屋では現代美術の作品が売れる」と言われたくらいです。僕は細かい記録とかアーカイブスが苦手ですが、生き字引だった人たちがどんどん亡くなっていって、歴史というのは残さないと無くなるということを歳とともに改めて感じます。
80年代、デビュー当時の創作活動
大学に入って2年ぐらいは、どちらかというとコンセプチュアル・アートとかアメリカ型のパフォーマンスとかアースワークに興味があったのですが、ちょうど80年代に入った辺りでキース・ヘリング(1958~1990)やジャン=ミシェル・バスキア(1960~1988)が流行りました。しかも美術雑誌ではなく、最初に「BRUTUS」(1980年創刊のライフスタイル情報誌)などで取り上げられていました。サブカルチャー的な入り口ですよね。僕もニューペインティングの旗手という感じで取り上げられました。当時は、マイケル・ジャクソンとかプリンスのミュージックプロモーションビデオがテレビで流れて、きっと外国だったら、こういう風に美術も評価されるだろうなって、勝手に上昇志向を膨らませて、周りの大人たちの顰蹙を買っていましたが、それでも世界に太いパイプが繋がっている名古屋のアキライケダギャラリー(現:イケダギャラリー東京)に作品を扱っていただけたことが、人生に大きく影響したと思います。僕は弱い人間なので心が簡単に折れるし、虚勢だけ張って、とにかくでかい絵を描いて納得させようと力んでいました。
学生時代は、お金がないのでペンキでキャンバスに描いていました。キャンバスを壁に直接貼り付けて、出来が良かったらパネルや木枠に貼ることにして、後は寸法を測って自分で材木を切って木枠を作っていました。とにかく当時はでかい絵を描くということに燃えていましたが、今思えば絵のサイズ自体にはそんなに意味はないなと思います。でも身体的に10メートルの絵を描くのと1メートルの絵を描くのは全く違うことなので、それを若いうちにできて良かったかなと思います。
当時描いていたような即興的な絵は、ちょっと油断するとすぐマンネリになっちゃうんです。僕は実存型と呼んでいますが、自分の内面から感覚で出していくような絵は、魂が乗らないと、ただ絵の具がキャンバスに乗っているだけになってしまいます。そこを何とか絞り出して、その日のうちに決着つけて帰るぞ、という感じでやっていたので、いつもアトリエに行くときは、自分のテンションを上げて行っていました(笑)。で、そういう気分だから、すぐ癇癪を起こしてしまう。テニスのマッケンロー選手ではないですが、ラケットを折るのと同じ感覚で、画面に投げつけた筆が刺さってしまったこともありました。もともと多動症気質で、その気質をそのままリンクさせて描いていたので、1日1時間半ぐらいで一気に勝負をかけるような感じでした。
大学を出て2年後の1986年には東京のスパイラルギャラリーと原美術館で、ほぼ同時期に展覧会をしました。原美術館では、ちょうど同世代だった中原浩大(1961~)さんや青木野枝(1958~)さんも出展しました。その頃、今思うと少し早かったかなと思いますが、ニューヨーク行きを勧められて、しかも住居を提供してくださる方がいたので、渡米を決意しました。
ニューヨークでの出会い・帰国
ニューヨークでは、いろいろな作家に会い、美術館やギャラリーを観て回りました。そこで魅力を与え続けるものは残る、という凄みを感じました。折角アメリカに来たのですからメトロポリタン美術館を観に行きました。当時は気持ちとしていくらか支払えば入場できたので、毎日10セント入れて観に行っていましたが、毎日観ていても全く飽きない。それと比べて現代美術は、最初のインパクトは大きくても徐々に慣れてくる。現代美術はずっと観ていて面白いものでもないな、自分がやりたい美術は現代美術ではないのかもと思い始めると、もう作家としてかなり危うい状況が生まれて、自分が発表している場所とか生きている世界と、やりたいことがずれてきてしまったんです。そんな時、ニューヨーク・タイムズの美術記者の方から「絵が観たいならヨーロッパに行くしかないでしょ」とアドバイスされて、89年の2回目の渡米時に、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、各地の美術館で作品を観て回りました。
とにかく古い物をたくさん見る。(1989年)
86年の最初のニューヨーク滞在中は、偶然ジャスパー・ジョーンズ(1930~)さんが近所に住んでいたので、訪ねて行って、ご飯も作ってもらって、一緒に映画も観に行きました。かなり貴重で得がたい経験だったはずですが、経験が自分の中で肥やしになるにはまだ早かったようで、帰国後、早速スランプに陥りました。それでも何回かの展覧会をこなしたのですが、89年あたりには「これ以上描いたら僕はもう死ぬ」と思うようになってしまいました。だいたい僕は精神が柔なので、ちょっと辛いとすぐ弱音を吐いてしまうのですが、そんな僕を見て、妻から「死んだら困るから一度ギャラリーをやめてみたら?」と言われ、「その手もあるか」と思って(笑)。周りからは止められましたが、一時期ギャラリーでの発表をやめてしまいました。90年代の初頭は、自分にとって地獄のような日々で、体調も悪く、ひと月に3回くらい風邪をひいていました。そんな中テレビで、なんでも鑑定団がやっているのを見て、古くから伝わるものを何も知らないので見て回ろうと思い立ち、筆を買って一生懸命崩し字の練習をしたり、愛知県陶磁美術館をはじめ色々な焼き物の美術館を巡ってみたり、信楽に行ったり、奈良県の古梅園という墨づくりの老舗に行って墨の違いを勉強したりしました。学生に戻った気分で勉強、というか、毎日閉館時間まで図書館にいて、その後いっぱい借りた本を安レストランに持っていってワインを飲みながら読むという生活でした。
だから、若者が抱く、まだ何者でもない自分に対する不安感や、何者としても扱ってもらえない恐怖がよくわかります。よく学生がダラダラしているとか甘えているとか言う人がいるけど、大抵そうなるのです。自分はこうだというものが見つかればそれに向かって邁進できますが、ちょっとでもそれに不安があると、こんなことやっていていいのかな、と迷います。日本は褒めるよりもけなしてしまうことが多いので、さんざん否定されます。でも、仲間同士で作品を褒め合い「傷はなめ合って治せばいい」と思います(笑)。美術の世界というのは、心が折れたら終わり、主観が生命線の世界、自分が迷い始めたらあっという間に崩れてしまう世界です。絵を描くというのは、今の絵の状態じゃダメだということを確認しに行って、どうしたら良いか見つけてくるようなことなのであり、安易にダメ出しをしてもいいものは絶対に出てきません。
若い芸術家を指導して思うこと
80年代の後半ぐらいから9年間ほど非常勤講師として大学へ行っていました。当時は半ば遊びに行っているような気分でしたが、2005年に改めて教授職で呼んでいただいた時は、「僕に先生ができるのか?」と不安に思いました。大学で働いていると、学生の傷つくさまがすごく伝わってきます。僕が学生の頃は、傲慢にも、つまらない絵を描いている教師の批評は聞かないようにしていましたが、僕が接する学生たちは著しく自信を失っていて、言葉による批評がかなり心に突き刺さってしまうようです。
また、自分が描こうと思ったことをもう誰かが描いていると知った途端に描けなくなることがあります。例えばゲルハルト・リヒター(1932~)が凄く取り沙汰されていた頃だと、「私のやりたいことをみんなリヒターがやっている」と思うわけですね。オリジナリティを求められて、「こんなことは既にやられている」じゃあ何を描いたらいい? ということの繰り返しで、「自由に描いて」と言われて何を描けばいいかわからなくなるということは、美大の学生にはよくあります。学生と関わることはすごく好きで、ありがたい仕事をいただいたなと思っています。よく「才能」で片付けられがちですが、持って生まれた器用さだけでは作品になりません。美意識や判断力という主観を磨き上げることが大切だと思います。僕自身、高校時代の同級生たちと比べると技術や忍耐力では劣りますが、なぜか判断力だけは自信がありました。学生にも、「僕たちの仕事は主観が大事。自分の中の判断を日ごろから心がけて、自分自身と対話するように」と伝えています。
同時に、いつも考えていることですが、何かスペシャルなものを創る人がもっと尊敬されるとよいなと思います。圧倒的な個人の力への敬意でしょうか。音楽でも舞台でも、この人が立っただけで全然違うというようなことがありますよね。大勢で作品を共同制作することもとても大切ですが、そういう個人への敬意を無しにして、「みんなでアート」というのは、また別のことかなと思います。僕は美術作品というのは繊細なもので、とても大切に扱うべきだと思っています。例えば、作品に額をつけるかどうかで悩んでいる卒業生が、「額縁に入れると自分の作品と関係ないものが回りにくっついている気がするし、なんか権威的な感じがするから嫌なんです」と言っていましたが、反面、額縁をつけることで、これはすごく大事なものですよ、という扱いをしているようにも感じられます。僕はよく茶室に例えますが、躙り口から入ると、そこに床の間があり、掛け軸があって、そこに気持ちを寄せていくための距離感みたいなものが生まれます。そういった美術作品を鑑賞するための環境も大切だと思っ
ています。特に雑多な街の中からいきなり美術の世界に気持ちを切り替えられないので、美術館のエントランスやその空気感とかを徐々に感じながら気持ちを切り替えていけることが必要だと思います。
画家として絵を描くこと
年齢を重ねたことで、夭逝した作家に対して憐憫の情を覚えるようになりました。死んでしまったらその先に成長はない。例えばバスキアなら、27歳で完結しなくてはいけない人生だったと思うと、作品に対する印象がずいぶん変わってきます。おそらく、自分がバスキアより何十歳も年上になったからだと思います。普通は60歳を過ぎた辺りから少しずつ活動が停滞していくように感じられますが、作家は長生きして、還暦を過ぎてなお、というような時間的余裕が欲しいなと。与謝蕪村や浦上玉堂は歳をとってから素晴らしい作品を残しました。僕は文人画家のような隠遁生活に憧れています。誰にも知られず、田中一村のように知られざる画家として生きていきたい。そう言うと、名古屋の街中で卒業生たちとしゃべってお酒を飲んで、なにが隠遁生活だと笑われますが(笑)。
また、最近の美術に対する感覚がビジネス的になっていることには違和感があります。美術を盛り上げようという人は、まず作品を売る話をしますが、それは後からついてくることであって、まずは描きたいから描く。創作活動を楽しんでいるからこそ面白い表現が生まれてくるのではないでしょうか。
学校の講義などで「芸術って何でしょう?」という話になることがありますが、それぞれが持っている美意識が発露できればいいと思っているので、同じものを目指す必要は全然ないのです。「芸術」とは、形容詞のように捉えた方がいいと思っています。「美しい」という言葉と同じように、「芸術い」ものがあるということで、それは人によって少しずつ違うので綺麗に定義できるようなものではありません。「これ芸術いね」とか「これアートいね」のような、「尊い」とかいう感覚に近いものとして捉えた方がいいと思います。なにか「芸術」という枠組が存在していて、出来がいいけどその枠組にあてはまらないから「芸術ではない」とか、つまらない作品でもその枠組に入っているから「芸 術」、のように判断するのはおかしなことだと思います。ハイカルチャーもサブカルチャーも関係ありません。僕は、「ここまでいくんだ」という限界のない表現を観てみたいと願っていますし、もしそれが自分の作品なら最高なんですけどね!
