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声楽家
いはら よしのり井原 義則 さん
声楽家、演出家、指導者として活躍
名古屋を拠点にオペラやミュージカルなどで数々の主役を務め、コンサートでも多くの観客を魅了してきたテノール歌手の井原義則さんは、今なお現役で歌い続けている。歌だけでなく演技にも定評があり、時には演出までも手掛けてきた。音楽教員として勤めながら半世紀近い間、第一線で活躍してきたその原動力を探るべく、今日までの歩みを伺った。
(聞き手:小塚 憲二)
歌の大好きな男の子
井原さんは1955年、佐賀県で姉と兄の3人兄弟の末っ子として生を受けた。
「父は炭鉱で働いていました。歌を歌うのは炭坑節くらいで、音楽にはあまり興味は無かったと思います。炭鉱の仕事というのは大変危険で、場合によっては命に関わるということもあり、私が7歳の時に大阪に出て鉄工所に勤めることになりました。引っ越したばかりの頃は、祖母も含め家族6人で6畳一間での生活でした」。
高度経済成長が始まった頃の日本人の生活ぶりが偲ばれる。
「歌好きの姉の影響でしょうか、私も幼い時から歌が大好きで、歌謡曲やアニメソングなどをいつも歌っていました。ちびっこのどじまんのオーディションも受けました。その頃から将来は歌手になりたいと思っていました。布施明さんみたいになれたらいいなって。でも今から思うと歌謡曲の歌手にならなくてよかったです。自分の持ち歌といいましょうか、同じ曲ばかり歌わないといけないですからね(笑)」。クラシックだけでなくポピュラーソングも歌うことの多い井原さんは、幅広いレパートリーを持つ歌手でもある。その後、大阪府立東住吉高校に進学し、2年生の頃から音楽大学に進もうと決心する。当初は関西の大学へ進学を考えていたが、声楽家・カンツォーネ歌手としても活躍する新井裕治さんが愛知県立芸術大学(以下「愛知県芸」)から、たまたま教育実習生として来ていたことがきっかけとなり、創立間もない時期で素晴らしい環境と設備が新しかったことにも惹かれて、愛知県芸を受験することになった。
舞台芸術に魅せられた学生時代
1974年、愛知県芸声楽科に合格して、新たなスタートラインに立つことになった。井原さんは9期生だが、新しい学舎の中で、多くの学生は皆、自分達が将来を切り開いていくんだ、という強い意気込みを持っていたと語る。名古屋二期会の設立メンバーでもある洞谷吉男先生から、ドイツ歌曲を中心に指導を受ける傍ら、舞台公演の創作にも関わることになる。
「2年生の時に先輩に誘われ、『ドン・キホーテの星』というミュージカルに出演しました。作曲科の学生が書いた作品で、初演では村人役だったんですが、数ヶ月後再演したときは、より重要な役をもらいました。今だからお話ししますが、大学では2年生までは外部公演への参加が認められていなかったので、芸名で出演しました(笑)」。
その翌年、愛知県芸大学祭のオペラ『白雪姫』では重要な役割を果たすことになる。
「この舞台の総予算はわずか2万円でした。お金が無い以上、何でも自分達でやるしかないということで、自分達で台本を書き、やはり作曲科の学生に曲を書いてもらいました。この時は主役の王子役をもらいましたが、演出も私がすることになりました。この作品は、愛知県芸の近くにある長久手小学校で再演もしています」。
このオペラ『白雪姫』がきっかけとなり、人生の伴侶である千葉妙子さんとのご縁が深まったとのこと。小人役として同公演に出演していた声楽科の同期生であった妙子さんとの交際がはじまり、大学院に入ったタイミングで学生結婚。現在に至るまで何度も共演を重ね、歌い手同士のご夫妻として広く知られるようになった。
青年時代の演奏活動
1980年に愛知県芸大学院を修了し、南山高等学校・中学校で音楽教諭の職に就く一方、歌い手として活躍するチャンスもつかんだ。名古屋市に拠点を置く代表的な合唱団のひとつ「グリーン・エコー」でソリストのオーディションがあり、ドヴォルザークのレクイエムでソリストに選ばれる。この時の指揮者が外山雄三氏だった。当時、名古屋フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者を務めていた外山氏との思い出を語っていただいた。
ソロ(1981年)
「とても厳格な先生でした。合唱団の皆さんは先生が来るたび、すごく緊張していましたし、稽古ピアニストに対しても厳しく指導していました。それでもカリスマ性があって、偉大で魅力的な方でした」。
外山氏にはその後何度も抜擢され、オペラや宗教曲で数多くの共演を果たすことになる。この時期のもうひとつ特筆すべきことは、名古屋ミュージカル協会が制作するオフ・ブロードウェイの名作ミュージカル『ファンタスティックス』への出演である。当時の名古屋はミュージカルの黎明期で、地元制作はほとんど無かった。名古屋ミュージカル史の1ページ目を飾るこの公演で井原さんが主演を務めたことは、昨今のミュージカル活況を考えると象徴的でもある。
ピッコロオペラに参加
タミーノ役(1994年)
演出家の伊藤正規氏が1981年に立ち上げたピッコロオペラは、ピッコロ(イタリア語で「小さい」の意味)の名前が示すように、主に小劇場で比較的短編作のオペラの公演を行なっていた。
「最初に観たときはオペラというよりも、芝居の上に音楽が乗っているという印象でした。妻が先に入っていたのですが、私も誘われて参加することになりました。1984年の『アメリア舞踏会に行く』が初参加の作品です」。演出家の伊藤氏は愛知県芸の先輩だったそうで、その人となりについてお尋ねしてみた。
「あまりメジャー指向ではありませんでした。それよりも少数でもいいのでファンを大事にしようというスタンスの方で、才能に溢れていて、オペラを演じる上での演技の重要さや、自分の感性の枠を超えて役に成り切ることなど、多くのことを学ばせていただきました。私の歌手人生にとって大いに影響を受けた方です」。
20年程在籍したが、その後もピッコロオペラの活動は続いていて、最近も客演としてコンサートに出演している。
総合舞台芸術公演で活躍
1984年、名古屋市芸術創造センターが開館、併せて財団法人名古屋市文化振興事業団(以下「事業団」。現在は公益財団法人)が設立された。演劇、音楽、ダンスの要素が融合した総合舞台芸術であるミュージカルやオペレッタを毎年上演し、2025年現在で40作品を数えるに至っている。井原さんにとっても魅力的な企画で、これまでに10作品以上に出演し、そのほとんどで主役を演じた。
「楽しかったですね。出演者はオーディションで選ばれるのですが、役者と歌い手、それにダンサーが一堂に会して稽古するのは初めての経験でした。それぞれ気質が違っていて、役者からは本番で最大限の力を出し切る集中力を感じましたし、ダンサーは黙々と身体の鍛錬を繰り返していることに感心しました。私と同世代の若手も多く出演していて、舞台を通じた交流はその後も続いていますし、貴重な機会になったと思います」。
西尾名古屋市長(当時)、妻・長女と(1986年)
1986年、『ウエストサイド物語』を下敷きにしたミュージカルコンサート『トニーとマリア』に主演したことが評価され、事業団が独自に授与している芸術創造賞を受賞。1989年にはオペレッタ『メリー・ウィドウ』に主演したが、この時の演出は、日本を代表する演出家の宮本亞門氏だった。
「まさに天才と言って過言ではない方でした。振付もご自分でなされましたし、音楽についても大変精通しておられました。それでいて、決して押し付けることなく、明朗快活で優しく、迷いなく演出されていたことを覚えています」。
歌と演技そして観客
総合舞台芸術であるミュージカルなどでは歌い手にも演技力が要求される。井原さんは学生時代以来、ミュージカルの出演経験も豊富なためか特に戸惑うことは無かったとのことだが、声楽家が演技することの難しさについて次のように語ってくれた。
「声楽家はどうしても歌に意識が集中してしまいます。うまく歌おうとする意識と同様に演技に対する意識を両立できれば、観客も自然と作品の世界の中に入っていけると思うのです」。
観客を大事にしたいという思いから井原さんは次のように続けた。
「私はオペラの原語上演があまり好きではありません。原語の方が歌いやすいとか、原語上演こそが本物なんだという考えなのかもしれませんが、それは歌い手のエゴなのではと思います。お客さんも字幕で物語を読むよりも日本語で歌を通じて物語を聴きたいのではないでしょうか」。
熱く語るその言葉には大いにうなずけるものがあった。
ウィーンへの留学
1988年、広報なごやで海外留学支援の募集の知らせが目に留まり、短期留学。これがきっかけとなって、愛知県芸大学院修了以来音楽教諭を勤めていた南山高等学校・中学校の教員留学制度で、次の年から3年間のウィーン留学が実現し、幸いにも家族でウィーンに住むことができた。メゾ・ソプラノ歌手として活躍していたヒルデ・レッセル=マイダン氏が開設した生徒数10人程度の小規模な音楽学校に入学する。マイダン先生からどのようなことを学んだかお尋ねしてみた。
「声を聴く耳を養うことが出来たと思っています。他人の歌を聴いて、『これはいい声だ、おそらくこんな発声の仕方をしているんだろうな』ということが分かるようになりました」。
他人の声を聴いて自身の声を高める術を会得したということであろう。また、井原さんはこの留学の際にも出身国が異なる仲間とともに舞台を創り、演出を手掛けるという貴重な機会を得た。
「留学生仲間と4人でモーツァルトの『バスティエンとバスティエンヌ』というオペラを上演しました。出演者もわずかな小作品ではありましたが、ドイツ語でコミュニケーションをとりながら四苦八苦して演出しました。マイダン先生も大変喜んでくれました。とてもいい思い出です」。
1992年に帰国するまでの3年間は、今の活動に活かされる貴重な学びの期間だったことだろう。
円熟期を迎えての大活躍
留学を終えて帰国した井原さんの目ざましい活動が再スタートする。先にも触れた事業団の総合舞台芸術公演に出演を重ねるほか、名古屋二期会や名古屋オペラ協会主催のオペラでも数多く主演することになる。またこの時期以降、名古屋でも和物とも呼ばれる時代劇をはじめとする創作オペラが盛んに創られるようになり、井原さんも古代から江戸時代まで様々な歴史上の人物を演じている。
「創作オペラの場合、あらかじめ私の声の高さや声質に合わせて作曲してくれることもあり、とてもありがたかったです。また和物は、洋風な生活に慣れてしまっているからなのか、所作や立ち居振る舞いが難しかった反面、髷は我ながら似合うと思いました。やはり日本人なんだなと再認識しました(笑)」。
地方自治体等が主催する市民参加型の創作オペラが盛んに創られるようになったのも1990年代からである。1997年に多治見市文化会館開館15周年記念事業として創られた『オリベ焼文様』では、茶人武将として高名な古田織部役で出演。初演以来10回に渡り再演を重ねている。2025年には名古屋演奏家ソサイエティー創作音楽劇『散りぬべき』で、主人公細川ガラシャの父親である明智光秀と本能寺の変で討たれた織田信長をダブルキャストで演じた。ドラマチックな脚本や作曲もすばらしく、思い入れの深い作品の一つとのことである。
アイゼンシュタイン役(1996年) 飯田みち代さんと
夫妻で開くコンサート
演奏家という職業は、依頼を受けて報酬を得ることで成立する。だがそれでは飽き足らず、自らコンサートを企画する演奏家も多くいる。井原さんもそのお一人で、2000年に『井原さんちのコンサート』と題して、妙子さんと2人でご夫妻によるコンサートを始めた。
「依頼されてコンサートに出演することはたくさんありますが、お客様のことを思ってプログラムを組むと、日本歌曲やイタリアの歌が多くなるのは当然です。それなら自分達で立ち上げて、自分達の思い通りの選曲にしようと企画しました。入場無料なので好きにやらせてもらっています(笑)」。
なお、このコンサートは歌曲ばかりでなく、短いオペラも上演するなど盛りだくさんの内容になっている。
「男女の物語を創りたくて知人にストーリーを考えてもらいました。それに合った曲を、著名なオペラから選んで、歌詞も書き換えて歌いました。お客さんに喜んでもらえるように名曲ばかり集めました」。
このコンサートはこれまでに10回の開催を重ねている。2015年に一旦休止したが、2026年には久しぶりの開催を予定している。
音楽の指導者として
井原さんには、南山高等学校・中学校の音楽教諭を長く勤めてきた、指導者としての顔もある。
「生徒が音楽を好きになってくれることを第一に考えました。男子校なので中学に入ったばかりの生徒達はちょうど変声期を迎える頃で、思うように歌うことが出来ないことも多いのです。そこで、まずは頭で理解してもらおうと思い、なぜこの音からこの音へと繋がっているのか、音符とは何か、ということから丁寧に説明しました。音楽鑑賞では軽い曲を選びました。例えばケテルビーの『ペルシャの市場にて』を聴かせて、作曲者はペルシャに行って何を感じたのだろうか、などと考えてもらったりしました。高校生からは選択科目になるので、もとより音楽が好きな生徒が集まってくれました。ギターを教えて合奏したり、シンガーソングライターのように作詞・作曲し、自分で歌ってもらったりしました」。
さらに井原さんは、ブラスバンド部も自ら立ち上げている。
「立ち上げるためにも楽器を揃えないといけないため、予算を認めてもらうのが大変でした。それでも3年程で揃えることが出来て、30人規模のブラスバンドを誕生させました。始めのうちは私も細やかに指導していましたが、生徒に任せた方が自立心が芽生えますし、創意工夫も生まれるため、意図的に一歩引いて見守るよう心掛けました。結果としてそれは成功したと思います」。
50歳になったとき、常勤教諭を勤めながらの音楽活動はやはり負担も多く“歌い手として活躍できる時間には限りがある”と、2006年に退職し、音楽活動に注力しつつも、名古屋圏域で大学等の非常勤講師を務めることにした。
「2008年からは、愛知県芸で非常勤講師として15年にわたりオペラの授業を担当しました。母校で講師を務めることができたのは、誇らしく嬉しいことでした」。
将来の担い手に向けて
インタビュー時点(2025年9月)で古希(70歳)を迎えた井原さんに、将来を担う若い人達への助言をお願いした。
「私たちの世代が最前線で活動しているようでは先が思いやられます。若手の皆さんもより精力的に活動してもらいたいですね。舞台芸術というのはすごく労力もお金もかかるので、どうしても二の足を踏んで、諦めてしまうのでしょうか。困難はあっても立ち向かおうとする情熱をもってもらえるといいですね。また、最近は東京へ出たがる若者も多いようですが、私はあまり勧めません。主演を勝ち取る実力があっても、東京ではチャンスも多い反面、ライバルも多いですからね。結局、名古屋にいた方が、より多くの舞台を経験することができると思うのです」。
井原さんはこれまでにオペラ、ミュージカルなどの舞台公演に133回も出演している。その他、コンサートやリサイタルなどを含めると700回を超える出演を重ねてきた。名古屋を拠点にしながら活躍を続けてきた井原さんという成功例があればこそ、若い人達には一層の奮起を! と切に願っている。
