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視点

奇想の演出家・ 天野天街のいた時代

 2024年7月7日、演出家・劇作家の天野 天街が、肺がんのため64歳で彼岸へと旅立った。主宰する〈少年王者舘〉の第40回本公演『それいゆ』初日を4日後に控えてのことだった。劇団を旗揚げした20代の初めから、劇作や演出、映像、映画、イラストレーション、コラージュ、文章など、多岐にわたる創作活動で異才ぶりを発揮。名古屋を拠点に幅広く活動していた野及び〈少年王者舘〉は全国各地にファンを有し、名古屋で開幕後、東京、京都、高知と続いた『それいゆ』にも多数の観客が詰めかけ、その死を悼んだ。多くの人に愛された奇想の演出家・天野天街の足跡と功績を振り返る。

(まとめ:望月 勝美)

天性の表現者・天野天街のルーツ

天野 天街さん

 1960年、愛知県一宮市で生を受けた天野は、幼少の一時期、父が貸本屋を営んでいた影響もあって早くから数多の本や漫画に触れ、稲垣足穂、つげ義春、水木しげるなどの作品に親しんだ。やがて、カルト的人気を誇った「月刊漫画ガロ」(日本初の青年漫画雑誌として'64年に創刊)に傾倒。中でも鈴木翁二の作品世界や感性に共鳴し、'98年には『マッチ一本ノ話』、'04年には『こくう物語』の同名漫画を原作として作・演出を担い舞台化もしている。

 小学校の頃から級長を務める人気者であった天野は、本名の英則とは別に、創作物などで既に“天街”(天外、天涯など表記のバリエーションはさまざま)を名乗るなど、この頃から生涯にわたる趣味趣向が定まりはじめ、表現者としての資質も発揮しはじめる。高校時代には映像作品も手掛けるようになり、「天体嗜好症」などの8mm 映画を撮影。その才能は、'94年に「愛知芸術文化センター」のオリジナル映像作品として初監督し、2つの国際映画祭でグランプリに輝いたサイレント短編映画『トワイライツ』の快挙(※1)へと繋がる。

『トワイライツ』のワンシーンより
撮影:羽鳥直志
  • ※1少年トウヤが、死の瞬間から過去・現在・未来の郷愁を採取して幻の地図を巡る、スラップスティック調ロードムービー。「第41回ドイツ・オーバーハウゼン国際短編映画祭」及び「第44回メルボルン国際映画祭短編部門」で、共に日本人として初めてグランプリを受賞した。

 もともと「演劇は大嫌いだった」というが、大学時代、別の大学に進学した高校の同級生の誘いを受け、公演チラシと舞台美術の製作を手伝うことに。そこで「ついでに役者も」と請われて出演を引き受けるも、初舞台で何も出来なかった悔しさが原動力となり、演劇を続けることになったとか。台本も同様に、周りの人間に勧められるまま書き始め、上手くいかないことから「次こそは!」という想いで40年以上続けてきたという。

唯一無二の“ アマノ式エンゲキ” の作り方

 嫌いだったはずの演劇について、天野はかつてインタビューでこう語っている。「中から見ると演劇にはものすごく伸びしろがある。なんとなく、映画のようなものを創りたいという気持ちでやっていたのですが、【演劇】というライブであり総合芸術…光や音などを総合的に使って何かひとつのものを成り立たせることに可能性を感じました」

 '82年に〈少年王者舘〉を結成し(当時は〈劇團少年王者〉)、当初は劇作・演出ともに数人が入れ替わり担当していたが、徐々に天野一人がその役割を担うように。そうした流れと上記のような意欲から演劇活動に邁進し始めた天野は、「ある(いる)」ことと「ない(いない)」ことを最大の主題として、「生と死」「あなたとあたし」など、すべてのものを等価に見据えた独自の視点による台本を書き、特異な演出法を編み出していく。

 例えばその1つに、前の役者のセリフの語尾と次の役者のセリフの語頭を同じ音にして台本を書き、役者に同時発声させる“重ね”がある。やりたいことはあっても物語を描くことには興味のない天野が、役者のセリフを書くため“しりとり”の要領で言葉を繋いでいったことで、独特のリズムや多様な効果を生んだ演出法だ。

 他にも、時間が前後したように感じさせる暗転や明転の使い方、自動人形のような動きが特徴的なダンス、さらに、プロジェクションマッピングの先駆けであり、虚実を曖昧にすることで不思議な効果を生んだ映像演出や、何時とも何処とも知れない光景でありつつ、なぜか郷愁をそそられる舞台美術、天野の細かな要求に応えて制作された数々の劇伴(音楽)、オリジナル衣裳、大量の小道具などが渾然一体となり、優れたスタッフの発想や多大な力も得ながら、他に類を見ない演出と劇空間を確立していった。

常に探し求めた、新しいアイデア

 劇団内外の作品に関わらず、劇作や演出を手がける際に天野は、題材となる対象や周辺を納得がいくまで調べ尽くした。知識や情報を詰め込んだ先に、“無意識レベルで立ち現れてくる何か”を重視し、「何の関係もないように見えたものが、一瞬にしてすべてが繋がる瞬間がある」とも。そうした事象と、役者一人ひとりの身体、スタッフの協力によるテクニカルで高度な試みが合わさることで生まれる、煌めく刹那に芝居の醍醐味を見出していたように思う。

 作品のネタ探しや表現方法の探究にも貪欲で、気になることや芝居に使えそうな発想が浮かぶと、すぐに書き留めていた姿も印象的だ。友人・知人はもとより、初めて出会った人とも酒の力を借りながらよく語り合い、雑読に余念がなく、演出のヒントになり得るマジックの類いにも強い関心を示し、情報収集にかける熱意と知識欲は衰えることがなかった。

 公演前の取材の度に聞いた「誰も見たことのないものを創りたい」という欲求は、劇団とは別に立ち上げた〈KUDANProject〉(※2)の発足以降、より顕著になっていったように思う。それまで手がけてきた大所帯の劇団作品とは異なる、二人芝居という新たな制約の中で最大限できることを探りはじめ、海外公演も始まったことから自分たちとは異なる言語を使う観客にも面白さを届けるべく、驚くようなことがしたい、という幼心のような純粋な欲求と、演出家としての矜持がより高まっていったのかもしれない。

『百人芝居◎真夜中の弥次さん喜多さん』 ’05年8月上演/愛知県勤労会館 
撮影:山崎のりあき
KUDAN Project『くだんの件』’16年11月上演/伊丹AI・HALL
  • ※2天野が作・演出を務め、小熊ヒデジ、寺十吾(じつなしさとる)の二人芝居を上演する目的で’98年に発足したユニット。これまで『くだんの件』『真夜中の弥次さん喜多さん』(原作:しりあがり寿)『美藝公』(原作:筒井康隆)を上演。再演も幾度となく行われている。’05年には、出演者約170名、スタッフも含めると総勢300名以上が参加した『百人芝居◎真夜中の弥次さん喜多さん』も上演した。

多様な世代、多彩なアーティストたちと交流

 演劇を通して天野は、さまざまな年代や多岐にわたるジャンルのアーティストたちとも盛んに交流した。
 演劇界では例えば、生涯唯一の“師匠”と慕った松本雄吉('16年に逝去。主宰していた〈維新派〉は'17年解散)とは、ホームグラウンドであった「七ツ寺共同スタジオ」の周年記念企画で2度の大規模な合同野外公演を行い、'13年と'16年には松本が上演台本と演出を担当したパルコプロデュース『レミング~世界の涯まで連れてって~』(原作:寺山修司)で、共同台本及び一部演出も担うタッグを組んだ。'23年には、憧れの存在であり、奇しくも同じ年に鬼籍に入った唐十郎の戯曲『少女仮面』を人形劇化。〈糸あやつり人形一糸座〉による公演で演出を担当した。また、流山児祥率いる〈流山児★事務所〉からは毎年のように依頼を受け、長年にわたり多くの作品の演出や映像監督などを務めた。

 当地で同時代に活躍した演劇人とは、北村想の戯曲『最後の淋しい猫』(初演は北村自身の演出で'81年上演)を'96年に演出。同年代の佃典彦とは、'00年に『極楽鳥には足がない』で佃が戯曲、天野が演出を手掛け、同年〜翌年にかけては、同い年のはせひろいち率いる〈劇団ジャブジャブサーキット〉と合同公演『8月の南瓜と12月の西瓜とケンタウリ~ (ナフ)の思い出~』(作:はせ/演出:天野)を行った。長年の盟友でもあった佃、はせとは、役者として出演した別作品で共演などもしている。

 また、天野を慕う年下の演劇人たちとのコラボレーション企画の予定も幾つかあり、構想段階のものから、具体的に上演準備が進んでいるものもあった。

 さらに、十代の頃からファンだったというあがた森魚や、'80年代後半から交流が続くたまなどのミュージシャンをはじめ、漫画家や作家、映画監督など多彩なジャンルの多くのアーティストたちとも交遊し、創作活動を共にすることも多かった。

奇想天外で緻密極まりない、再現不可能なアマノワールド

『それいゆ』チラシ。
モチーフを切り貼りするアナログ手法によって独自の感性で製作されたコラージュがベースになっている。
〈少年王者舘〉の多くの公演チラシのほか、外部からのオファーも絶えず、数多くの作品を手掛けた。
天野の生前最期の公演作品となった『それいゆ』(’24年7月〜8月、名古屋・東京・京都・高知で上演)。
’92年の初演当時、約4年の休養期間を経て発表された本作は、天野演出の要素やアイデアがぎっしりと詰め込まれた代表作のひとつ。
撮影:山崎のりあき

 天野の書く台本は、いわゆる「戯曲」とは様相が大きく異なっている。特徴的な筆跡で大学ノートに手書きされ、役者のセリフや動き、ト書きのみならず、前述の“重ね”部分を示す文字を囲んだ丸印、シーンごとの役者の出ハケや配置図、照明や音楽、音響、映像の指示やきっかけ、舞台セットや小道具のイラストなどがぎっしりと書き込まれ、初見で全体を理解することは難しい。

 自ら「コレは戯曲ではなく、或るジクウカンの設計図である」と明言しているのは、自身が台本執筆に追われて稽古に参加できない時も読めばわかるよう、必要に迫られて編み出した、苦肉の策の特殊台本だからだ。慣れた役者やスタッフは、この“設計図”により天野の不在時でも稽古を進める術を身につけているが、それだけで作品が完成することはない。

 ゼロコンマ数秒単位の僅かなズレも良しとしない、鋭すぎるほどの感覚で指示する演出家本人の全体調整によって役者の発声が変わり、動きや間合いが締まり、醸し出される空気や気配が変化し、心地よいリズムが生まれ、シーンが輝きだす。また、ひとたび幕が開いてもなお、高みを目指して細かな修正やシーンの追加などが日々重ねられていく。そうした微に入り細を穿つ感性こそが天野演出の真骨頂であり、それが出来るのは天野本人しかいないからだ。

 そういう意味に於いて真の天野作品を観ることはもう叶わず、天野天街がいた時代が終焉を迎えてしまったことは本当に残念でならないが、天野自身もそうであったように、優れた先人たちの創作に触発され、影響を受けながらも独自の道を切り拓いてゆく、そんな新たな才能の活躍も楽しみにしたい。