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〈オレンヂスタ〉座付き作家・演出家

ニノキノコスター さん

フロンティア精神で培った、 独自の表現を武器に

 「名古屋大学劇団新生」で活動を共にした、主宰でプロデューサーの佐和ぐりこさんと共に、劇団〈オレンヂスタ〉を立ち上げたのは2009年のこと。近年、演出家・劇作家として躍進するニノキノコスターさんは、コンテンポラリーダンスやオブジェクトパフォーマンス、人ヒト形ガタを取り入れた作品創りに挑み続けている。’23年の日本演出者協会「若手演出家コンクール2022」では『「サトくん」のこと。』で最優秀賞を受賞するなど、これからの活躍もますます楽しみなニノキノコスターさんに、これまでの歩みと今後の展望について伺いました。

(聞き手:望月 勝美)

クラシックバレエの経験を経て、演劇の道へ

 ニノキノコスター(以下、ニノ)さんが本格的に演劇の道へと進んだのは高校時代。5歳から15歳までクラシックバレエを習っていた際に出演した『くるみ割り人形』の演劇的要素に興味を抱き、高校の先輩から演劇部に誘われたことで演劇人生が始まる。

5歳から10年間「豊田シティバレエ団」に在籍し、
クラシックバレエを習得

 「本当は小学生くらいの頃からずっと、精神科の医師免許を持ってる漫画家になりたかったんです(笑)。でも理系科目が得意じゃなかったし、高校の部活は化学部に入ったんですが、男子ばかりで馴染めなくて。うちの高校は6月に2日連続で文化祭と体育祭をやるので、演劇と展示と体育祭の応援とマスコット作りに分かれて、先輩達と縦割りのチームで準備をするんです。それで演劇を選んだら、そこにいた演劇部の先輩から『あなた面白いから演劇部入りなよ』と言われて『はい、入りまーす』って(笑)。高校3年生の文化祭では作・演出・出演をしましたけど、その頃はまだ台本を書きたいとかは全然なくて。それから高校を卒業して浪人中に、演劇部の先輩だった人が〈名古屋大学劇団新生〉(以下〈新生〉)に入って、『暇してるなら手伝ってよ』と言われたのがきっかけで劇団に入ったんです」。

出役から劇作・演出への転向、 同志と共に〈オレンヂスタ〉結成へ

 「〈新生〉でもずっと出役でしたけど、作・演出に転向する大きなきっかけが2つあって。当時は〈五反田団〉とかがグイグイきていた時代で、後輩のそれっぽいワンシチュエーション会話劇に出た時に、『“こんなこと私は思わない”っていうことは言えない。会話劇は無理』と気づいたのが1つ。それとその頃、名古屋学生劇団協会の事務局に出入りしていて、『大阪の〈デス電所〉の作・演出の竹内佑さんを招いて、名古屋と大阪の学生合同で2都市公演をやろう』ということになり、制作と出演をしたんです。そこで『私はこれが好きでこれが観たい、これがやりたい。けど、名古屋にはないから自分たちでやろう!』となったのが2つ目。

 それで私が作・演出した作品で佐和ぐりこが舞台監督を務めたり、2作くらい一緒だったんです。『いつかまた、みんなで演劇やりたいね』と言いながら、1回ちゃんと社会を体験しよう、と就職して。佐和ぐりことルームシェアしてたんですけど、2、3年経ったある日、私の部屋のドアを開けて『ニノさん、演劇やろう!』と言ってきたので、『わかったわかった、やろうやろう』と。【来年の夏、演劇やります】と筆で書いて、やるからね! というのが〈オレンヂスタ〉の始まり(笑)」。

『犬殺しターくんと非実在チーちゃん』上演より
2013年3月/千種文化小劇場
作風変化のターニングポイントとなった作品

多くの出会いがもたらした、創作表現の転換期

 それぞれ別の広告代理店に勤めていた当時、ニノさんはデザインとコピーライティング、佐和さんはディレクター職を担っていた。その経験が現在の活動に繋がり、自劇団のみならず他団体などの宣伝美術も多く手掛ける礎となる。こうして’09年に結成された〈オレンヂスタ〉は当初、パンクロック精神とポップさが融合するエキセントリックな作品を手掛けていたが、’14年頃に大きな転換期を迎える。

 「’12年度に、12か月連続でUstream(ライブ動画配信サービス)公演をやって、七ツ寺共同スタジオ40周年記念公演『東京アパッチ族』(作:坂手洋二、演出:小熊ヒデジ)に演出助手として参加して、その翌年3月に〈オレンヂスタ〉の本公演を上演した時に、旗揚げからずっと“竹内佑イズム”でやってきたことを、あ、やり尽くしたな、と思ったんですよね。

 そのあと演出家の木村繁さんから、『お前、活きがいいらしいな』と言われて、愛知県芸術劇場が主催する『AAF リージョナル・シアター2013~京都と愛知 vol.3~』の芥川龍之介特集に参加することに。京都の村川拓也さんが『羅生門』、私が『地獄変』の構成と演出をそれぞれ担当したんですが、村川作品を観て、こんな演劇があるんだ! と衝撃を受けて。その直後にも『あいちトリエンナーレ2013 祝祭ウィーク事業』で、コンテンポラリーダンスカンパニーの〈afterimage〉と〈オレンヂスタ〉の合同公演として『サ××ド・オブ・ミュージック』を上演して。私は脚本だけだったんですが、演出と振付が〈afterimage〉のメンバーで、そこでも創り方の違いに驚いて、こんなやり方があるんだ! って。

 やりたかったことをやり尽くしてしまって、これからどうしようか、と思っていた時にその2つの衝撃があって、その頃、横山拓也さんの戯曲講座に通っていたので横山さんに相談すると、『変わろう! ってなったなら、それはやっていった方がいいと思うよ』と言われたんです。それでもう、ゴリゴリのワンシチュエーション会話劇を書き、とはいえ〈afterimage〉ショックも受けているので、会話劇の内容と全く関係ないコンテンポラリーダンスのムーブも合わさった、白黒つかない作品が出来上がりました(笑)。

人形劇に魅せられて

 そこから、人形劇界隈との縁が繋がるのは、木村繁さんのおかげです。当時『愛知人形劇センター』の理事長をされていたので企画会議の時に私を推薦してくださって、これも突然でしたけど、『愛知人形劇センターと飯田人形劇センターが大人向けの人形劇を共同制作するから、シェイクスピアで人形劇をやれ』と言われて。そのうちに企画が子ども向けに変わって、『シェイクスピアに、人形劇に、子ども向けって、3つとも全部やったことないねんけど! わ、わかりましたー!』って(笑)。それで『ひまわりホール』に来ている海外の人形劇を観るようになって、めちゃくちゃ面白いな、人形劇って可能性があるな、と。

 そのあと初めて“パネルシアター”も観て、『なんだこのギミック、巨大なキャンバスでやったらどうなる? これだけ大きくて2次元なら漫画だな』みたいなとこから考えて『MANGAMAN』を創り、【P 新人賞】(人形劇ジャンルの明日を担う斬新な才能を発掘するため『愛知人形劇センター』が開催している賞)を受賞して、これが演劇で初めていただいた賞です。それから人形劇『犀』(作:ウジェーヌ・イヨネスコ)の構成・演出や、『人形劇・寿歌』(脚本・監修:北村想)の演出を務めたり、自劇団でもそれ以外でも結構、人形やオブジェクトを取り入れた技法でやっていく感じになりましたね。

『犀』上演より
2020年1月/損保ジャパン人形劇場ひまわりホール
フランスの不条理劇作家ウジェーヌ・イヨネスコの作品を世界初人形劇化

 あと、宮城聰さんとか鈴木忠志さんの系譜が好きで、いつか『利賀演劇人コンクール』に出たいと思って2回ぐらい観に行った時に、〈noism〉の金森穣さんとか、平田オリザさんとか、そういう方達が演出というものについて話していることを聞いて、『あ、演出家、演出ってこういうものなんだ』と学びを得たことが、技法とは別に演出家として育まれていった素地としてあります」。

仲間たちと共に歩んでいく、これから

 こうして新たな出会いや課題、難題にもフレキシブルかつ意欲的に取り組み続けていったことで、〈オレンヂスタ〉を構成するメンバーもまた、新たな試みの鍛錬を重ね、徐々に技術が培われていったという。そのため近年は作品づくりの際、「先にいろいろ決め切らなくても、いろいろな可能性を試せるようになった」と。そして’23年、こうした信頼するメンバー達と共に、日本演出者協会が主催する「若手演出家コンクール2022」最終選考に臨む。上演した『「サトくん」のこと。』は、’16年に起きた相模原障害者施設殺傷事件を題材に描いた作品で、野菜や果物、人形などのオブジェクトを効果的に用い、ニノさんが創作を始めた頃からの重要なテーマでもある社会的弱者を描いた作品で、最優秀賞受賞を果たした。

『「サトくん」のこと。』
「若手演出家コンクール2022」最終選考の前月、
’23年2月に名古屋「七ツ寺共同スタジオ」でも、〈オレンヂスタ〉アラカルト公演の一作として上演された

 「事件当時、『でも気持ちはわかるよ』というSNS 上の声がすごく多くて、絶対的にやってはいけないことだけど共感を示してしまう差別性って、結局なんなんだろうな、と。私には障がいを持つ家族がいるので、『障がいのある人と自分』というテーマは昔から5~6年に1回くらい取り組んでいました。これからも人形劇のジャンルは取り組むだろうから、それを組み合わせてみることでどうなるだろうか、というのが最初で、いろいろ試しながらコンセプトを固めていった感じです。

 演出の技法として新しいアイデアをどこから持ってくるか、みたいなことはこれからも続けていくんですけど、この10年ぐらい本当に演出のことしか考えてこなかったので、回答を出せるルートはなんとなく定着してきているんです。なので、今は改めて劇作の方もちゃんとやっていかなきゃいけないな、と思ってます。自劇団の脚本を考える時は、モチーフになる場所を先に選ぶんですね。’20年に上演した『黒い砂礫』でK2(世界最難関の山)は描いたので、次は深海をやりたいな、と。深海をテーマにして、言語を用いるところと、ノンバーバルでそこだけ抜き出して海外にも持ってけるようなものをやれたらなぁ、と思ってます」。